人間のあるべき姿の探索

思索・人形・エンジニアリング

石の偶然性

『石が書く』という書籍を購入しました。

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石というモチーフはしばしばフィクションや造形の素材として用いられています。鉱石は種類ごとにパワーや意味合いを持ち、その見た目だけではなく文脈の中に存在しています。僕自身人形の背中に水晶のジオードを埋め込み身体内部の表現を試みたり、石には興味がありました。

ロジェ・カイヨワは書籍の中で石の断面について語っています。石の断面は偶然の産物であり、切ってみて初めてその姿を見せます。しかしそこには何か意味を持った造形が”彫られて”いるように感じ取ってしまう、という魅力について語っています。天井のシミが人の顔のように見えるというとつまらないもののように思えますが、石それ自体の美しさの中に何かが描かれているのを見ると確かに惹かれるものがあります。

書籍の中ではあばら家に見立てた石の話や、化石が以前は生物の亡骸ではなく自然の戯れによって出来上がったという説が存在していた話、そして芸術家が石の上に絵を描いた作品の話などがありました。絵を描く人の意地として美を自分の力で描きたい気持ちはあると思うのですが、それを越えて絵の素材とすることを強制する力を持っている石には何とも言えない気持ちになります。実際美術をやっていた人間が石の偶然性の魅力に取りつかれて活動をやめてしまうこともあるらしいです。

石の魅力について考えると、やはり偶然性は欠かせないのではないかと思います。そしてこの偶然性は科学技術の方向性に相反する試みであり、一つの希望ではないかと考えています。現代科学といえば、現象をモデル化しそれを確度高く再現することが求められています。今話題のイラストを自動生成するシステムについても、大量の学習データの点を空間に埋め込み、その空間の中の点から再構成されるイラストを補完するアルゴリズムで成り立っているので、モデル化から再現を行う枠組みとして考えれば大それたことは行っていません。さらに言えば、データ点が貼る空間内の点の補完は本質的に新しいことは行っておらず、枠組みは定式化され閉じた系の中でのImiationに過ぎません。誰が何を行っても同じ結果が出る、その進歩の中に芸術家を含めた人々が呑み込まれていくわけです。

逆に、石の偶然性はその偶然性にこそ魅力があります。例えば人工的に形作られたダイヤモンドはその見た目の美しさには魅力がありますが、それは技術によって成り立っており、想定されたもの以上にはなりません。しかし、たまたま見つけた石の断面は唯一無二の存在でありそこに意味が見出されるごく個人的な経験に意味があります。この偶然性を得るのは難しく、そして自分が他の主体とは異なった唯一無二の主体であることを保証してくれる存在になります。そのプロセスの中に、技術に呑み込まれることで他者から価値を認められる機会が減ろうとも自らが主体となった経験には自分にとっての価値を見出すことができる希望を与えてくれるのではないかと思います。

 

そういうわけで石を買いました。

オーロラを思わせる薄く透明なフローライトです。断面とはいいつつ表面がえぐれており赤茶色の傷跡が残っています。ここが地上を思わせる山、観測基地、空へとつながる狼煙といった上下を規定するアクセントになっているように思います。光を当てて透かして見ると、稲妻のようなひび割れが内部に見えます。透明故に角度によってその表情が異なるのはとても魅力的でした。

月並みですが瑪瑙です。だんだんと色が深くなる構造は深海をのぞき込むさまを思わせます。本来であれば水面から深海まで見通すことはできないですが、その断面故にそれを可能として、このシンプルな構造の中に一つの世界を閉じ込めているので見ていて飽きません。上部には断面の層を貫く穴が開いています。瑕疵としてとらえることもできますが、やはりというか、石が描く世界が断面においては平面になってしまうところを複数の層が存在することを示す穴によって一つ上の次元を想像させてくれる効果があるように感じました。

 

余談ですが、かたく、意識を持たない主体であるところの石には安心感があり、それは人形やぬいぐるみに感じる人未満の安心感があるように感じます。人形について考える際、人間の境界、ぬいぐるみとの境界とよりヒトガタに近い部分を考える機会が多かったのですが、今一度より意識の存在しない静的な存在との境界を考えることでそのアイデンティティを見つめなおせたら嬉しい、と思いました。

 

 

 

 

解体ショーを見た話

この前の週末にお出かけした際、解体ショーを見たのでその話です。

元々私は寿司が好きで食べるのも好きですが、寿司にマイクロビキニを着せる部活に入っていて休日や仕事の後の時間などにマイクロビキニを着せるならどの寿司ネタが良いか検討しています。最近ではアノマロカリ寿司マイクロビキニ部という分科会が発足し、マイクロビキニアノマロカリスの寿司に着せることの是非について一人で議論しています。

そんなこんなで繁華街で考え事をしながら歩いているとお寿司屋さんが目の前にありました。繁華街なので勿論いろんなお寿司屋さんがあること自体は特段驚くことではないのですが、「解体ショー」というはしがきがメニュー表の上に書かれていました。おなかがすいていたのもありましたが、寿司について新しいインスピレーションを得られるのではないかと思い、そのお寿司屋さんに入りました。

店内は少し大きめの普通の回転寿司ですが、一角に魚を置く台と即席の観客席があり、まばらではありますが人が座っていました。私も友人と共に椅子に座り待っていると、寿司職人らしい服装をした若い女性が台の前に立ち、お辞儀をしました。台の下から2,3つの箱を置き、それぞれの箱から包丁を取り出しました。包丁には刻印がされていて、その中には「平野」「アナポール」などと書かれていました。個人的には包丁は日本で作られた和の製品のイメージがあったので、海外製の包丁が使用されているのかと少し驚きました。

ただ、解体するためのネタがまだ来ていません。もうしばらく待つと、台の上で解体の準備を終えた女性が店の裏へと消えていき、ガラガラと台車を押しながら戻ってきました。台車の上には黒いポリ袋に包まれた大きな物体が置かれていて、これだけの大物を捌く様子が生で見られるのはとてもラッキーだと思いました。しかし、そのポリ袋の中から現れたのは魚ではなく、縄で縛られてぐったりとした男性でした。

途端に店内の雰囲気がガラッと変わり、勿論私も戸惑いました。それとは対照的に女性は覚悟の決まった顔で包丁を手に持ちます。女性は演説じみた口調で「今から私は、彼氏を解体します」と言い放ち、その男性に刃をあてます。女性はそのまま刃を食い込ませ、滑らかに男性を捌いていきました。息をのむ迫真のショーだった為、私は困惑しながらも食い入るように眺めていました。30分ほど経ち、男性は三枚おろしになっていました。そこでさらに驚いたのですが、三枚おろしになった男性の3つの部分はそれぞれが立ち上がり、女性と並んだかと思えば全員でお辞儀をして店の奥に消えていったのです。

店に入ったからには寿司を食べずに帰るのも失礼と思い、そのまま寿司を食べて帰ることにしました。流れてくる寿司を取る以外に何か注文をする際は目の前にいる大将に握ってもらうシステムだたので頼もうとしたところ、ちょうど目の前にいたのは先ほどの女性でした。その時食べたかった赤エビとえんがわ、トロサーモンとアノマロカリスを頼んだ後に、女性にショーについて聞きました。それで彼女が答えてくれた内容は以下のものでした。

「私、今の結婚制度や彼氏とのかかわり方について疑問を持っていて。勿論彼のことは好きですが、恋愛から生活まで、すべてのことを彼一人と添い遂げることで叶えようとするのは無理があると思いました。ときめきはありますが、生活をするには少し価値観が合わなかったり、それで彼の仕事の方にも支障が出たり。悩んだ末に、彼と別れる決断はできませんでした。

その葛藤の中で気づいたのですが、彼は彼という人間ではなく、ロマンティックラブイデオロギーという私の前に立ち現れた思想であることに気づきました。そこで私はハッとし、彼を解体することで私たちの関係性が解決すると思ったのです。私はショーの中で彼を”ときめき”、”生活”、”仕事”の三つに分け、私はそれぞれと関係を結ぶことにしたのです。気に入らなければ彼の部分を他の人に代替し、それぞれの責務を部分に果たさせる、それが解決だと思ったのです。

私はこのショーの為に彼を捌く為の技術と、捌く為の道具を探しました。包丁も、勿論人間を切るには普通の包丁でよいですが、何しろ彼は人ならざる者でしたので、それ相応のものが必要でした。ただ、それだけの苦労のおかげか彼を綺麗に三枚におろすことができたので、私は満足しています。これからの未来が明るいものになると良いなと思っています。」

それを聞いた私はとても満足し、帰路につきました。アノマロカリスは美味しかったです。

 

※寿司が好きであることとマイクロビキニ部の話以外はフィクションです。

 

アノマロカリ寿司マイクロビキニ部

思索と議論を重ねているうちに次第に意味不明な方向に概念が成長してしまったのでその系譜を辿ります。

寿司

皆さん、寿司をご存じでしょうか?ご飯の上に主には海産物を乗せた食べ物で、昔から日本では親しまれています。そのネタとしては、マグロやイカ、タコといった海の生き物から卵焼きといったそれ以外の食べ物、最近ではハンバーグなど多様な食べ物がその上に乗っています。ただ上にネタを乗せるだけではなく、巻物やカリフォルニアロールといったその他の形態の食べ物も寿司として認識されている食べ物があります。このように、形態やネタを問わず様々な寿司があり、また人によって好きな寿司ネタが異なる為好きな寿司ネタの話は話題に困ったときにとりあえず話せる程度には一般的な話題かと思います。

寿司、といった時に一般的に思い浮かべるのは現存する生き物がほとんどだと思いますが、どうやらアノマロカリ寿司という概念が存在するらしく、イラストも結構あるみたいです。可食部はどこか?と気になりますが、似たような生物としてオオグソクムシを食べた際は中身はなく外骨格ごと食べてエビの殻だけ食べている気持ちになったことを覚えています。五億年前なので推測の域を出ませんが、オオグソクムシのことを考慮すると、アノマロカリスは素揚げでそのままシャリに乗せて食べるのがカンブリア紀当時としては一般的だったのではないかと推測します。

マイクロビキニ

話は変わって、マイクロビキニ部についてご存じでしょうか?知らない方は是非調べないでください。これは様々なキャラクターにマイクロビキニを着せたイラストを投稿したり写真を撮るといったコンテンツの愛で方の一つですが、一般的なイメージとは異なり女性以外のキャラクターにマイクロビキニを着せたものにスポットが当たることがしばしばあります。一大分野として名を馳せているのはコックカワサキマイクロビキニ部で、彼のソーセージのようなムチムチとしたオレンジの肌はぷりぷりとしてマイクロビキニのひもが食い込むさまがピッタリで、マイクロビキニ映えするという世間一般の共通認識が垣間見えます。他にも遊戯王に登場する「黄金卿エルドリッチ」というモンスターは没落貴族のゾンビでその見た目は黄金に輝く鎧ですが、こちらにもマイクロビキニを着せたいという人は一定数いるみたいです(残念ながらイラストはほとんど投稿されていませんでした)。このように、マイクロビキニを着せたい概念というのは別に女性に限らないのです。

寿司マイクロビキニ

これまでの背景をもとに、本題についての議論に移ります。

寿司マイクロビキニ部をご存じでしょうか?私が考え付いたときには他に提唱されている方を見つけられなかったので、たぶんご存じではないと思います。寿司ネタ論争というのは単に味だけではなく、その寿司ネタが持つ何かしらのイメージがあります。それをマイクロビキニという試金石を通して概念を解体し、背後に存在するイメージ・本質を見出す試み行う人々を「寿司マイクロビキニ部」と呼びます。呼んでいるのは私だけです。

具体的に、マイクロビキニを着せたい寿司はどういったネタなのでしょうか?議論の中で上がったものとして、まずは赤エビがあります。赤エビはそのぷりぷりとしたBodyがマイクロビキニに合いそうという直観と共に、エビという生き物が殻という服を脱ぎ捨てた生身の肉体にマイクロビキニを着せることが正に着衣のメタファとなる論理的な整合性の美しさが存在します。他にも、トロサーモンは子供にとっての寿司の王者たるサーモンと立ち位置を比較され軋轢に苦しむ姿が落ち目のグラビアアイドルを想像させ、その立場や性格からマイクロビキニを着ることが想像されます。また、甘えびはジュニアアイドルの雰囲気を感じさせ、マイクロビキニを着せるのは憚られるという意見もあります。このようにマイクロビキニ寿司は意外と奥が深いのです。

アノマロカリ寿司マイクロビキニ

ここで一つの視点が生じます。実際に寿司にマイクロビキニを着せる時にはどこにブラが来てどこにパンツが来て、どのようにそのBodyを包むのでしょうか?その答えとなるのがアノマロカリスではないかと、私は考えています。上述のオオグソクムシの例からアノマロカリスが素揚げ及び同等の殻をもった状態でシャリに乗って寿司ネタとしてマイクロビキニの前に立ち現れると、そのBodyは節足動物故に甲羅がいくつかの節目によって分かれていて、目の前でアノマロカリスマイクロビキニを手に取り来てみると紐がその節目に沿うように綺麗に食い込みます。そして甲羅の微妙なふくらみをブラが包み込み、過不足のないマイクロビキニを着こなしたアノマロカリスの寿司が完成するのです。外骨格かつふくらみのありそれを分かつ節目もある肉体、正にマイクロビキニのために生まれてきた寿司ネタと言っても過言ではありません。

こうしてこれまでの議論を踏まえて出てきた概念が「アノマロカリ寿司マイクロビキニ部」なのです。

終わりに

アノマロカリ寿司マイクロビキニ部万歳!

人形になれるシステムを作るVer0.1

ロボットを遠隔操作する為のシステムのプロトタイプを構築しました。

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背景

前々から人形が動くと嬉しい!と思っていたので動かしています。

基本的には人形内部に埋め込まれたモータが直結したコンピュータに直に動かすための処理を実装していたため、物理的に接続されたボタンを押す、カメラに映った顔の位置を判定して自律的にそちらを向く、といったその空間に閉じた仕組みでした。

それとは別に、人型ロボットの界隈では昔から実験方法としてWizard of Oz法というロボットを操作して自律に見せかける、といった方法があります。関連する話題だとVRChatなど何かしらの物理的媒体を使って自分以外の何かしらの肉体に憑依する、といった体験が気軽にできるようになっています。

そこで、人形に憑依できたら嬉しい!ということで考えたところ、拡張の方向性として他のPC、欲を言えば目の前じゃなくて、例えば外に持ち出したり友人の家にいる人形に憑依できたら嬉しいので、やっています。因みに、こういったシステム自体は上述のとおりいくつかあるのですが、なぜやるかというと、人形が可愛いからです。ロボットも可愛いといえば可愛いですが、好みの方向性を追求すると誰かが実現するのを待つより自分で作った方が早いので。

アーキテクチャ


大まかな機能および採用理由は以下の通りです

  • 遠隔操作画面:Reactで画面を作成。画面上のボタンを押してロボットに命令を送ることを想定していたのですが、その際に画面更新をしない、コンポーネントを作りやすい、といった点で採用しました。
  • クラウドサービス:Azure上にWeb APIとRedis Cacheを用意し、データを一度DBに置く形にしました。全体的に使用経験があるというのが大きいですが、.NET Frameworkで簡単にREST APIを作成できる点とAzureフルマネージドな機能で諸々の連携が楽だった為採用しました。
    Redis cacheはデータの一時的な保存に使われるKey-Valueストアで、具体的な利用法として認証情報みたいな頻繁にアクセスするが処理自体は軽い、みたいなものに適しています。今回のケースだとロボットの姿勢は2自由度の姿勢情報がint型で入っている程度のものなので、ロボットのIDをKeyとして値を読み書きできるようにしました。
  • ロボット操作プログラム:Pythonで簡単なscriptを作成しました。正直言語は何でもよいのですが、今回はロボット操作用PCにJetson nanoを使用していることからサッとスクリプトを書いて動かしたかったのと、Arduinoなどで使用されているC++ライクな言語が通信周りや文字列処理の部分で機能不足と感じたため、Pythonを採用しました。あとモータを動かすためにPCA9685を使用しているのですが、そのライブラリを使用する際に深く考えずにサッと書ける、というのが割と大きいです。

検討した点・今後の展望

パフォーマンス的に間に合うのか

間に合う仕様にしました。操作用PCの画面からロボットに命令が届くまでにネットワークを経由する必要があり、どれだけデータサイズが小さくて通信がボトルネックになることは想定していました操作画面からHttpRequestでデータをWebAPIにおいてCacheに保存、までで体感100msはかかっていました。
そこで、ロボットPCのプログラムでは同期的に操作用PCから送られた値をすべて再現するのではなく、1秒間隔で値を読みに行って間の姿勢は補完する仕様にしました。
実際人間は偶に鋭敏な動きをしますが基本的に数100msくらいは惰性で動いているので、ロボットPC側で制御してしまった方が確実でした(値のバリデーションやスムージングなどをサーボモータの管理部分で行っていて、これらを仲介したお陰でデータが来ない数100msの間も自動で動くようになっています)。

認証周りはどうしたのか

計画だけして本格的には手を付けてないです。方針だけ示すと、基本的にはAzureADにお世話になるかと思います。AzureADでアカウントを作成・もしくは既存のアカウントを登録して、ロボット操作PCでは画面上でサインイン画面を表示するのが適切かと思います。ロボットPC側はいちいち認証画面を出すのが面倒ですが、認証情報を事前に登録してシークレットIDを記載しておけば自動で認証する機能がAzureで提供されているので、そのあたりの障壁は低いんじゃないかと思います。

憑依しているのか

していません。2つの課題が存在します。

まず、現段階では画面操作で命令を送る以上没入感の課題があります。今回はクラウドシステムを活用して遠隔操作ができることの実証がメインだったので、今後React製の画面を置き換える形でスマホの姿勢取得してサーバに送るUnityアプリを作る等、上記アーキテクチャの改良及び要素の置き換えをしていければと思います。

また、根本的な話として人間から人形に姿勢を送るのみで人形から人間へのフィードバックがありません。このあたりの解決法としては人形の頭にスマホを挿してZoomを繋ぐことで音声及び映像を人形の視覚・聴覚として配信することで解決できます。一応Jetson nanoにカメラとイヤホンを接続すれば同じことはできますが、ディスプレイが無いのでスマホを挿した方が楽です。

ただ、上記パフォーマンス面での仕様から読み取りの速度に限界がある為、HMDのような形でスマホを使用することを考えると、遅延がかなり気になるので遅延が問題となる場合はそもそもクラウドを経由せずP2Pでクライアントごとに直に通信する必要があるかなと思います。Zoomの通信遅延は体感400msくらいかかりますが、Redis Cacheの書き込み・読み取りをそれぞれ早めに見積もって100msとしても、姿勢情報を送ってロボットが動いて人間が動くまでに600msくらいの遅延が発生するので、ちょっとリアルタイムというには違和感を感じてしまうかなと思います(そもそも通話は400ms以上の遅延で違和感を感じるといわれていますね…)。

終わりに

改良が必要な点もありますが、ひとまずクラウドを使用して最低限遠隔操作ができるシステムが構築できました。

労働しながらでも人形やシステム開発をやっていきたいですね。

 

ポリアモリー・黄金の精神・カント

婚活と称して自らの恋愛観の解体のために本を読み始めました。

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ポリアモリー

ポリアモリーという言葉をご存じでしょうか。私自身最近知った言葉なのですが、poly-(複数の)+amol(愛)を意味する言葉で、複数の相手と恋愛関係を結ぶことを意味する言葉みたいです。

言葉の成り立ちだけ聞くとあまり良くない印象を受ける方もいるかもしれませんが、浮気のように隠すものではなく、複数人との関係を公開する、相手を尊重するといったいくつかの共通認識のもとに成り立つ関係性のことを言います。

個人的に興味を持った点として、恋愛関係に限らず相手に対して責任を持ち、関係を継続させるために何かしらの考え方を用いて互いの関係にコミットし続けることがあります。

より具体的な考え方として、以下の書籍ではポリアモリーの実態についてフィールドワークを行っている深海さんがその特徴について紹介しています。

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  1. 合意に基づくオープンな関係
  2. 身体的・感情的に深く関わり合う持続的な関係
  3. 所有しない愛
  4. 結婚制度にとらわれない自らの意志と選択による愛

こういた特徴を聞いたとき、正直なところpoly-に関係なく人々の人間関係として実践すると良い考え方ではないかと思いました。

また、ポリアモリーの倫理について、『ポリアモリー 恋愛革命』という書籍がありそこで言及されているらしいですが、日本語の書籍が17,000円くらいに高騰していたので買えませんでした(大学の図書館にもないみたいで泣きました)

  1. 意思決定は合意の上で
  2. 正直であれ
  3. 相手を思いやる
  4. 本気でかかわる
  5. 誠実であれ
  6. 個性を尊重する

他にも、複数の愛を生きる上でmono-な恋愛とは異なる課題もあり、例えば嫉妬については章を設けて語るほどには重要視されていました。他にも、複数人との予定や関係性の調整というところでタスク調整や関係性についての議論が積極的に交わされる点についてはポリアモリーで特徴的ではないかと思います。

私自身がこういった思想を持つかどうかは別にして、オルタナティブな関係性の模索を続けていくことが大事だと思います。ブログタイトルの通りですね。また、現代思想では様々なトピックが紹介されており、メンヘラ少女のオートセオリー、クワロマンティック、ロマンティックラブの現在、ゴースティングといった話もあるので人々は読んでください。

黄金の精神

ジョジョの奇妙な冒険の5部は既に履修済みでしょうか。ジョジョの奇妙な冒険では主人公のジョースター一族やその仲間たちに共通する精神として、黄金の精神があります。そして、それに対比される形で、5部では「吐き気を催す邪悪」という言葉が登場します。これは自らの利益のためだけに何も知らぬものを利用することを指し、劇中でも敵が自らが絶頂であり続けるために他人を利用する姿が描かれており、シリーズの中でも特にこの精神性の対比が強く表れているように思います。

話は逸れますが、2部でジョセフがワムウに対して敬礼を取ったのは戦士としての姿勢に感服したことがあり、その逆にカーズは戦いを侮辱した、というところも地味にこういった全体の思想のもとに展開された物語だということを感じます。勿論ブランド―の血筋も吐き気を催す邪悪側ですね。

黄金の精神に話を戻すと、具体的に明言された吐き気を催す邪悪とは異なりあまり明確な定義は見つからないのですが、(非公式ですが)ピクシブ大百科では以下のようなものが挙げられています。

dic.pixiv.net

  • 目の前の恐怖に屈しない勇気
  • 弱者を思いやる優しさ
  • いかなる困難をもはねのける精神力
  • 自身の矜持と責任に殉じようとする覚悟
  • 自分の宿命をありのままに受け入れる潔さ
  • 悪質・卑劣・無責任な言動や思想を批判・糾弾する誇り高い意思

poly-に限らない関係性の構築について考えたとき、こういった相手に真摯さがあると良いのではないかと思いました。勿論意図的にこれらを破ることにもよさはあるのですべて呑み込むことを肯定するわけではないですが。

カント

それはそうと純粋理性批判で有名なイマニュエル・カントは倫理関連でも様々な書籍や発言を残し、その中でこんなことを言っていたらしいですね。原著を読む頭はないので緩めの書籍から。

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君は、みずからの人格と他のすべての人格のうちに存在する人間性を、いつでも、同時に目的として使用しなければならず、いかなる場合にもたんに手段として使用してはならない。

 

定言命法の一つです。これを初めて聞いたときかなり「黄金の精神」らしいなと思ったのですが、自分及び相手を手段として用いず目的として扱う、という姿勢は所有しない愛とも相性が良く、尊重されるべき考え方ではないかと思いました。

この本では学問(特に人文科学・社会学の立ち位置)、功利主義ジェンダー、幸福論について現代的な目線で語られていて、かなり面白かったです。特に現代では落ち目にあるロマンティックラブを道徳的観点から擁護する論や浅い議論で批判されがちな功利主義についての立ち位置といった議論は読んでいて面白かったです。

まとめ

婚活何もわからないですわね。

 

 

 

 

 

 

 

AIの絵のやつ

ここ1,2週間でかなり高いレベルで絵を出力できるAIが登場したとして話題になっていますね(確かにレベルが上がったとは感じますが、実際このムーブメントは少量利用が可能で誰でも(計算資源があれば)使えるようになった、という障壁が低くなったことに起因している気もします(研究界隈ではSOTAを争っていたわけで、それらの人たちは近いレベルでの出力物はずっと見ていたと思います(とはいえ最近の動向を見ていると資金力のある企業が話題になるものを出しているので結局計算資源が障壁になっていたのかなと思います(スケーリング則の話もあるので))))

それはそうと、現状のAIはある程度明確に定義された入力と出力の関係を結ぶ能力が高まっているように見えて、その定義を越えたり、定義を自分から決定する方策を変更したり、(話は逸れますが)自分からそのデータを取りに行く一連の流れとしての知能に至るにはまだ遠いのではないかと思います。

そういうあたりにムカついて解釈のめんどくさそうな文から書き始めました(”(”、”)”で構文木を作って図示すれば明確な構造になるので、それを現状のTransformerとかができるか気になりますね)

 

そんなこんなで、現状のAIでしばらく達成できなさそうなものを考えていましたが、ある程度重複する部分も含めて三つほど思い当たるところがあります。まず一つ目は先にあげていた汎用人工知能的な話です。

Human-in-the-loopという概念があって、人と機械がその出力を相互に調整するループによって何かを出力する、というのが今のAIの限界なのかと思います。一発目の出力で何かを達成する、というよりは人間がそこからより近いものを選定したり、その出力の具合からより良いクエリ文を考えたり。個人的に印象に残っているのは東大の五十嵐先生の研究で人間がスライドバーでAIの出力物の良しあしの点数付けをしたら学習の速度が上がったことです。

二つ目に、関連する話として人間の尺度が明示的及び暗黙的に含まれている、というのがあります。先のスライドバーの話もそうですが、モデルを学習する際の評価基準は数式に落とし込まれているとはいえ人間が決めた尺度になります。評価関数以上に、データおよびそのラベリングは人間が決定しているものになります。そして現状すでに人間が分かっている価値観のもと生まれた出力物たちを見て良いとか悪いとか言っているので、再生産の能力が高まっただけのように感じます。もちろんそこから創発的な何かが生まれることはありますが、そこにも限界があるというか、結局人間が見出す必要があるのかなと思います。

三つ目に、ステートメントのなさがあると思います。人間がアートをやるとき、多くの場合ステートメント(ここではその作品の背後に含まれる思想全般とする)があり、ただ出力されたそれではなく、背景を含めた全体としての価値があると思います。ただ、現状AIってやつがそれをやっているかといえばNOで、そこに価値を付与するなら純粋な出力物によって評価される他は”AIが作った”という価値で、これは陳腐化すれば価値が落ちる、新規性依存の価値だと思われます。技術的な面と思想を混同するのはあまり良くないですが、絵に限って言えば背景みたいな曖昧性をある程度含むものは出力できますが、人間を出力するときただの肌色の塊になってしまって腕の生え方とか眼球の数とか、結構崩れてしまうのはその明確なルールが強い制約になっていないからだと思います(今でもノーフリーランチ定理って解消されてないんですかね(であればより強いルールを適用しようとすると結局手作業で作ることになりディープでポン!できないわけで))。そういう意味でも、ステートメントを生み出し、それを軸にものを作る人間が必要で、AIはツールであると思います。

ただそれでも、奪われる仕事は確実に増えていきます。この前読んだ小説の書き方の本で、自分の文章の癖を盛り込むよりも誰でもかけそうな文体の方が世間に受け入れられやすかった、読みやすかったというのが印象に残っています。おそらく前者的な仕事は残れど、後者は”再生産”しやすく、その生産自体の過程はとってかわられるのではないかと思います。絵についても、風景とか見ているとそんな感じがしますし、明確なルールに則った強い癖を出す必要が無ければ割と早い段階で飲み込まれると思います。

100年くらいのスケールで見たら上記の根本的な課題も人工的に”再生産”されて飲み込まれるだろうと思いますが、まぁ100年後の今頃にはみんな死んじゃっているから気にせずここ数十年吞み込まれないために安易に再生産されない価値・概念を作っていきたいですね。

 

それはそれとして、主体の価値とかもあるんじゃないかな思います。自分の主観で言えば、意識ある主体こと人間の自分が人形を作っているのは楽しいという意識がありますが他人が作っているのを見ても作る楽しさは経験できないわけで、評価云々ではなく自分がやるというのは自分にとって価値のあることです。

また、この前石の本を読んだのですが、石の断面の美しさはその偶発性が運命に昇華するによって価値が担保されている節があると感じました。そういう点で、明確な入力に対して出力が決まることで安易に再生産されるそれの価値は、真逆です。ルールの模索による再生産領域の拡大は科学の領分であり、この拡大は不可逆的ですが、それでも偶発性に依存する価値は吞み込まれないと考えています。人間も昔は偶発性の塊だと思っていたのですが、教育や環境による制御が発達してきたので、人間もかなり制御可能な存在に成り下がってしまったのは少し悲しいですね。この二項対立自体先細りの結末しか見えないので、新しい軸を見つけて俺たちの未來ってやつを獲得していきたいですね。

 

(追記)それはそうと、アナログ絵のあの質感、触った感じとか匂いはしばらくは再現されなさそうですね。

 

 

 

 

 

植物と動物の境界を超える

はじめに

動物と植物の違いを考えてみる。植物はその場で動かないように見えて、実のところその見た目に反して身体を動かし、積極的に栄養を求めたり成長し身体を肥大化させる。

動物との違いとして、高度にパターン化され、かつ機敏な動きを持たないことは挙げられるだろう。例えば、ハエトリグサやオジギソウは人間が数秒間も駆使しただけでも分かる動作を行いうるが、これはシンプルな反射であり、シンプルな入力に対するシンプルな出力でしかない。

また、大きな違いとして個体の区別という観点も挙げられる。動物においては一体、二体と数えられる場合が多く、特に人間やマウスのようなある程度大きな種であればその個体は多くの細胞から構成されつつその内外の隔たりが明確である。その一方で植物は表面上二つと数えられそうな茎が根元でつながっていたり、切断された茎を別の場所に植えたら新たな個体となったり、逆に二つの個体が成長につれて一つにまとまったり、あまり区別されていないようにも見える。その身体の形が明確に定められておらず、成長とともに非常に大きく変わる。

そこで、機敏な動きと身体の内外の隔たりという二つの観点から植物を動物足りえる存在に仕立て上げよう、というのが本稿の趣旨である。

構成を考える

機敏な動き

植物を動物にするといっても、動力が無ければ機敏な動きを行うのは不可能である。まずこの課題を解決するために電気的動力を導入することにした。平たく言えばモータに電気を流して身体を動作させる。

しかしただ身体が動いていることに意味はなく、生物としての欲求に基づいた動作をする必要がある。動物を例にとると、人間では五感と呼ばれるものであったり蝙蝠は超音波を入出力に使用するなど、入力のパターン及び出力のパターンは多様に考えられる。

ここでは、内的な身体感覚、より具体的には”空腹”とその充足を入力と出力のパターンとして用いることにする。一般的に動物はエネルギーを消費して活動を行う為に、定期的に捕食といったエネルギーを充足するための行動をとる。そしてその背後に、空腹を感じることが前提として存在する。勿論人間のように習慣が存在していれば論理的思考に基づいて空腹感を伴わずとも捕食行動を行いうるが、基本的には空腹の後に捕食が来る。

では、植物にこの一連の流れをどのように再現するのか。まず、空腹について、植物は多くの種において太陽光・酸素・水を必要とする。これを電気的にセンサとしてより身体感覚に近い形で取得するのであれば、水が適していると考えられる。というのも、水はちょうど空腹に近い対象で、その充足のためにモータを稼働させることで捕食行動を行うといった容易に想像できる対応付けが可能になる。勿論太陽光の有無を検知して太陽のある場所に移動することも考えられるが、それを行うには高度に計画された行動が必要になる。向日葵も太陽の方向にその花を向けるが、それも自身の位置から観測可能な入力を選び取るのみで自発的な行動によりその入力を変化させるようなことはない。

内外の隔たり

これは明確に定義することは難しいが、細胞に細胞壁があるように、人間に皮膚があるように、プランターをもって内外の隔たりとすることを検討する。植物はその土壌と密接にかかわりあっているため、この二つを区別することは難しく、そこに紐づくほかの生物も共同体として存在しうるが、概念を実装する上での最初の段階として、まずはプランターを内外の隔たりとし、土壌、植物、そしてその身体感覚を記録するセンサ及び捕食を行うためのアクチュエータをその身体の内とする。

作ってみる

システムの全体図及び各モジュール

カメのような身体で、空腹を充足するために水を自らの身体動作によって捕食する。

身体感覚の入力として、土壌水分センサを使用した。これは地面の中に挿すことで水分量によって変化する抵抗値を記録するものである。出力としては、首をもたげる為のサーボモータ及びその首から水を吸い上げるポンプを使用した。最後に、入出力をつなげる過程にはArduinoを使用した。

コード自体はシンプルなもので、常に土壌水分センサの値を記録し続け、その値が一定値を下回った場合に首を降ろして一定量の水を吸い上げる一連のアニメーションを実行する。これによって生命を維持する。

入力ー思考ー出力の流れ自体は昔ながらのロボットの典型的な行動様式であり、ロボットとしてはかなりシンプルな構造だが、アルゴリズムによって定義づけられた内発的欲求ではない、現実世界の身体感覚を用いた現実世界に開いたインタラクションである点にはある種の面白さがあると考えている。

終わりに

いかがでしたか?皆さんも様々な境界を超越して既存の世界を構成する枠組みを転覆させるための手を打っていきましょう!