何もしないロボットとしてLOVOTが最近話題になっている*1ので,何もしないとは何か少し考えていた.
まず,何もしないという言葉を聞いた時に,”レンタルなんもしない人”,”プーさん”を思いついた.言語の用法に関する統計的な分析や歴史的背景の調査は難しい*2ので,これらの例から少し考察してみた.
誰の視点に立つか
プーさんについては,「何もしないことをしているんだ」といった言葉が有名*3だけど,ここでの何もしないは彼にとっての何もしないことを表していると考えられる.*4
次に,LOVOTを考えてみる.彼ら?は実際には動き回ったり遊んだりしている.しかし,彼らは産業ロボットが行うようなタスクは行っていない.この点で何もしないロボットだけど,もしかしたらLOVOTにとっては遊んだり動き回っている自覚があって,それは何かの野望を果たすためだったり,何もしないことから十分外れる活動をしているかもしれない.
ではなぜ何もしないロボットなのか?と考えた時,ユーザである人間から見た何もしないなのかと考えた.産業ロボットも実際は「アームを動かしていて楽しい!」と思っているかもしれないし,心を無にして随意的に何もしてない状態でただ動いているのかもしれないが,人間から見たら産業ロボットは十分活動している.
何もしないことには何が求められているのか
LOVOTは,”可愛い存在として”先ほど述べたように抱きしめられたり室内を動き回ったり,といったことが求められている.しかし,これは全ての他者についてそうではない.
ここで,レンタルなんもしない人について考えてみるが,彼は”ただそばにいるだけ”である.労働の類はしていないが,話を聞いたり,引越しを見送ったり,作業を見守ったりといったことをしている.ただ,LOVOTの違いとして,確実に”人間一人分として存在すること”が求められている.
ロボットに愚痴を聞いてもらいたい人は比較的多くないし,緊張感を持たせるために見守ってもらう時にロボットを置いていても,あまり抵抗感が無かったり*5.少なくとも愛玩動物的な振る舞いとは別のものが求められている.
やはり,何もしないことが何かを詳細な分析抜きにひとことで表現するなら,彼らなりの”ただそばにいるだけ”なのだと思う.その点でレンタルなんもしない人はその言語化がされていてすごいと思った*6.