人間のあるべき姿の探索

思索・人形・エンジニアリング

肉体からの解放で何が救われるのか

少し前にclusterというVRアプリケーションを試してみて,アバタを自作して人間とコミュニケーションを取るに至った.そこで,(あくまで個人的な)考察をしてみる.

少し体験してみた程度なので,より長い期間・より没入感のある環境に身を置いてみると感覚は変わるのかもしれない為,試してみたい気持ちはある*1

経緯

いつものようにTwitterを閲覧していたところ,SFCのキャンパスをBlenderで作成し,clusterというアプリケーション上に公開されているのを発見した.

cluster.mu

このご時世でキャンパス内に入ることもできないし,鴨池に入っても放塾されないとのことで,せっかくなので入ってみることにした.

何をしたのか

一人で,もしくは友人と遊んでみた

SFCの他にも渋谷や青の洞窟といったいくつかのワールドを探索した.ワールドの規模や作り込みはそれほど複雑なものではなかった*2.しかし,ワールド内を擬似的に歩いている感覚は得られ,何より嬉しかったのが共同注視,目線を合わせることが可能だったことと歩きながら場所の案内や会話ができたことである.オンライン会議では画面上に相手がいるが,大体カメラから目をそらしているので目線を合わせることもなく,会話中にすることといえばメモを取るくらいである.

アバタを自作した

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作った.Blenderに手を出そうと思っていたこともあり,ひとまずcluster上で動くだけの物を作ってみた.といっても,外型を整えて色を塗ってボーンを埋めただけではある*3

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ぼのぼのも作ってみたりした.プレゼンができそうな雰囲気がある.作ってみた感想として,可愛いとか愛着が湧くとかいろいろあったけど,とりあえず自分固有の身体的特徴を得たことはそれなりに嬉しかった.

VR空間で初対面の人と遊んだ

現実世界で人間と会話するのがめちゃくちゃ苦手なのであれなのだけど,VR空間で人間とコミュニケーションをとることができた.

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チョークで遊んでいる時に,”カワウソカワイイ”と書いてもらった.僕もそう思います.この時遊んだワールドは教室にチョーク・ゴミ箱・ねこなどの把持できるアイテムがいくつかあり,横には画像のように庭が広がっていた.会話をメインとしなくてもただ飛び跳ねて追いかけっこをしたり,チョークで空間上に点を配置するだけでも,VRとしてのコミュニケーションは成立した.新規性からくる楽しさもあったが,初対面の人と何かしらの体験を一緒にできたのは割と嬉しかった. 

七夕祭に行った

SFCの七夕祭は今年はオンラインで開催された.すごい.

壁を登ったり,ステージ上で動画配信が行われたり,Murai Junが講義をしたり,最後には花火が上がった.

正直なところ,オフラインを前提とするとイベントでは人との会話ができない為,一般参加者同士のコミュニケーションが無くちょっと寂しさがあった.目の前に知り合いらしき人がいてもジャンプする,ハートを飛ばす程度のコミュニケーションしかできなかった(ジャンプ/着地状態を1/0と捉えてビットの切り分けの時間幅のプロトコルが共有されていればジャンプで任意の会話はできるが時間は有限ではない上にこのプロトコルで会話を行うには人生はあまりにも短い).

ただ,画面上で動画が流れるの体験よりは一緒にみている感覚が共有しやすく,周りを見渡せばたくさんの人が一緒の空間にいて”同じ体験をしている”ということが人目でわかった*4.これは非常に有意義だったと思う.

 

良いと感じた点

距離感覚について

clusterという空間の良さとして,Jun Murai大先生がすでに講義を行なったような機能としての便利さがある.ついにVRで学会が開催されたらしい.オンライン学会はポスターの説明が大変だとか,発表しても聴衆の当事者感覚が無く質問があまり飛んでこなかったとか,現地に行かなくても良い便利さがあった上で,そういった質に関する不満はいくつか見かけていた.その点ポスターの前にいって質問ができるような環境であれば解消できそうだし,VR空間内とはいえ”行かなきゃ聞けない”感覚が得られそうで,非常に期待している.

場所からの解放

遠くにいる人が気軽にどこかに行けることは良いことである.最近オンラインでの対話環境が整ったのをきっかけに遠くの方と議論しやすくなった方もいて,面白さを感じている.これはclusterのような空間に限った話ではないが,体験の種類によっては確実に共有しやすくなっている.SFCの七夕祭に他県から参加されている方もいたし,ライトな体験としてこれが可能になっているのは面白い.

動き及び見た目

エージェントの振る舞いを考察する際,例えば不気味の谷の議論をする時にも,見た目(Appearance)と動き(Behavior)は区別して議論されると明確化されていると感じるので,区別して議論する*5

まず,見た目の話をすると,いくらでもやりたいようにやれる.現状だとアバタの作成のハードルが割と高いと感じていて技術的な解決は必要だが,手を生やしたり顔面をめちゃくちゃ綺麗にしたり無生物の見た目て行動することもできる.僕は単純に顔面が綺麗な姿になって持て囃されることが嬉しいのかわからないが,カワウソとして可愛いと言われたのは割と嬉しかった.こういった嬉しさは現実と全く同じものを求めず,あくまでバーチャルとしての嬉しさを求めた方が健全なのかもしれない.

動きとしては,肉体の動きとの関連性が弱まることが挙げられる.まず,人間の形をしたアバタを考えてみる.これは使用する機器に依存することだが,例えば座っていても歩くことができる.ボタンに動作を定義すれば手を振ることもできる.つまり,身体的にできない動作を擬似的に再現することができる.顔面を綺麗にすることもできるが,動作を綺麗にすることができるのは嬉しいのかもしれない.

次に,ボタンで動作する尻尾を生やすようなことを考えてみる.これを現実世界で実現した場合,尻尾を動かすための何かしらの動作が必要になる.BMIでもない場合はボタンを押すなどの行動が周りの人から見えてしまう.しかし,VR空間であればそういったボタンを押す行為は周りから見られずに行うことができる.要するに,現実世界における一挙手一投足を観察されずに,意図的に観察されない動作をすることができる.よく瞬きで嘘をついているか判定する能力とか読唇術とか微小な動作を利用する人がいるが,こういった出力のチャンネルをオフにすることができるのである.これは現在の嬉しさだけでは無く,将来的なコミュニケーションの方式を探るのにも利用できそうな気がする

人格からの(弱い)解放

結局,これらの動きや見た目の自由度の高さが何になるかといえば,人格との結びつきを解消しやすい点にあると思う.見た目と人格がある程度結びついている点は,例えば社会通念として良いとされる肉体を持つ人は良い評価を得やすい為,それに基づいた行動を取るとか,逆の場合には肉体を隠そうとするとか,影響している.また,単純に個人の識別のための,個人情報としての肉体という側面も存在する.これらをリセットすることは割と大きい.僕はカワウソとしてVR空間に存在していたが,ぼのぼのに変化したとたん別人として捉えられるかもしれない.

ただし,肉体をリセットしたからといって今までの性格を引き継いで新しい肉体と暮らすだけだし,使えば使うほど固定化されているので,リセット自体に救いを求めるのならともかくリセットすればうまくいくというわけではない.オタクが異世界転生しても勇者になるわけでは無くて,オタクのままである.

留意点

肉体からの開放

上述するメリットは同時に問題も起こす.行動を隠すことはそれを前提とするコミュニケーションの破綻につながる.例えば,もぬけの殻になっているアバタに話しかけても何も反応してはくれないが,彼がもぬけの殻になっていることを把握するには,何をしても動かないことで認識するしかない.さらにいうと,意図的に動かないこともできるため,悪意を持ってもぬけの殻になり,擬似的なログアウトをすることも可能である.

僕は人の話を聞いている時と聞いていない時があるが,少なくとも対面ではそれを表現するためにちゃんと顔を逸らしたりボーッとしている.しかし,アバタを用いることで,一見見ているように感じるが実は何も見ていない状況が発生する.僕個人の意見にはなるが,対話中に明確に対話していないのがわかるよりも,対話しているように見えて実はしていない状況の方が共通の信念が獲得できていなかった感じがして印象が悪い.

エピソード

 これは少し前に気づいて面白かったのだが,空間からの解放とともにその場所に行くための労力が減った.これによるメリットは既に述べたが,体験のための労力及び共有する体験の減少が大きなデメリットになっているらしい.

まず,体験のために労力を割くことは当事者感の獲得につながる.わざわざ現地まで学会に行けばせっかくだからポスターを見て回ろうという気にもなるが,家でリンクを開いて出てきたページにわざわざ質問しようと思わない場合が多そうな気がする*6.さらに,記憶は結構その時の他の体験に依存する.一緒に美味しいご飯を食べながら会話して帰り道の電車で反芻するのとお家で画面の向こうで会話してそのまま寝るのとでは大きな違いがある.帰り道の電車のエピソードやご飯を食べている時といった情報が会話の内容を特徴付けるのに用いられるし,甘い物を食べると意見も柔らかくなるみたいな話もある.これらの大部分が失われた経験というのは結構寂しい物なのかもしれない.

まとめ

片方で全てを得られる世界は遠そうなので,肉をやめるチャネルと肉のチャネルを良いバランスで使える社会が欲しいね.

 

 

 

*1:部屋の中に動き回る空間と高スペックのマシンが生えてくれることを願う

*2:VRChatのイメージを持っていたので

*3:尻尾を実装し忘れた

*4:ゴーストがいると思うともっとたくさんの人が同じ体験をしていた

*5:もちろん深く関わっていて完全に分離することはできないため,あくまで中心的にみる観点として

*6:僕は参加してないので,あくまで”気がする”程度の話である