人間のあるべき姿の探索

思索・人形・エンジニアリング

言論

思ったことをあまりオープンな場で述べるべきではないのかもしれない.具体的な中身に関しては述べてはいけないのでここでは述べない.

ここ数年,人間関係での難しさや社会問題に直面する機会が多くなって,正しさとかどうすればうまくやっていけるのかとか色々考えることが多くなった.僕は多分少し頭が良くて物事を考えるのが好きなので,思ったことをすぐ口に出してしまう.

思ったことを口に出すには色々問題がある.まず,思ってもない意図ことを他者に勝手に読み取られることがある.これに関しては対面で話している分にはある程度仕方がなくて,相手のことを考えてなお分からないものはどうしようもない.でも,多人数や不特定の他者に伝えることは必要がなければしなくても良い.ある程度聴者のペルソナを用意することもあるが,用意したところでそこから外れる人は一定数現れるし,人間はあまりにも多様なのでパーソナライズしなければ確実に何かしら問題が起こる.正直これには疲れていて,分かる人間に伝えることに注力した方が良い.一応より多くの人に伝える為とか摩擦を起こすことで議論を発展させるとかそういうメリットはあるけど,まぁわざわざ優先するものでもない.

次に,思考の方向性があまり他者に合致しないことがある.自分にとっての正しさを考えているものの,多くの人を傷つけるような考えを思いつくことがある.神が設計をミスっていて社会や多くの人間個人がどうしようもないので仕方ないのだけど,あまり全員にとって希望のある優しい思想ではない.それを聞いて誰かしらが傷ついたり悲しむのは知っているので,自分の正しさを探すためにわざわざ公開するものでもないと思い始めている.読みたい人間が読めば良いと言っても限度がある.今まで読んでいた人に合わせるのも大変だし,気づいたら拡散されていることもある.全体に向けて発信する物事に関しては,何かを言わないことによる優しさみたいな虚無を優先していきたい.

人を傷つけてしまうかもしれないという恐怖は個人の活動に非常に大きな制限を課してしまう.少なくとも,個人間の関係でそれをやるくらいなら死んだ方がマシだと思う.ちゃんと殴り合いをしたい.不特定多数の他者に向ける場合も非常に大きな制限を課してしまう点では同じだが,よくよく考えると承認欲求とかたまに意見がもらえて発展するくらいのもので,特段公開したいものでもない.

 

こういうのは特定の個人と仲間内で話すのが楽しいのだろうと思うので,話したい人間がいたら是非話したいけど,それ以外ではできるだけ抑えるので,多分忖度のない”僕の考え”みたいなものはあまり公開せず,誰かがそれを読んで知る機会はなくなると思う.それに,情報というのは隠されていて自分だけが・仲間だけが知っていることに面白さがあって,共犯関係になることが楽しいのだと思う.

というわけで”僕”は消滅します.気が向いたら帰ってきますが,まぁ.