人間のあるべき姿の探索

思索・人形・エンジニアリング

雑記、作り手と受け手の非対称性について、人形作り等

以前、コンテンツに対する飽きみたいなテーマで人と話すことがありました。大雑把にまとめると、「若いうちから大量のコンテンツを摂取しすぎて、新しいコンテンツが生まれても既存のコンテンツとの類似性を感じてしまう」といったものでした。オタクは任意のコンテンツをドラゴンボールジョジョの奇妙な冒険グラップラー刃牙だと思い込むし、実際巨大なコンテンツが後続の人々の創作に与えてきた影響は大きく、何かしら感じ取らずにはいられません。この類似性から生じる飽きについて、考えてみたのですがあまり明確な回答が出せずにいます*1

この問題は現代以降の問題かなと思っています。例えばテレビが登場したころまでさかのぼると、テレビ番組はとても少なく、ひょっこりひょうたん島とか知り合いの家でテレビを囲んで皆でみたものでした*2。ここでの特徴として、コンテンツが非常に少なかったことと、皆が同じ対象を見ていたことがあります。当時そう思っていた訳ではないにしろ、コンテンツを選択できないからにはそれをひたすら見続けることになりますし、いつになってもその当時の熱狂は忘れられませんし、皆の話題となって会話も盛り上がる構図が生まれます。

対して現代はモノに限らず概念も大量生産・大量消費社会なのでたくさん流れてきます。これらを処理しようとすると自ずと一つ一つのコンテンツに対する効率を求め始め、他人の感想や考察を頭に詰め込んで派生作品を見るだけの焼きなまし人間になります。コンテンツ自体に対する目線ばかりが鋭くなり、大雑把でも盛り上がればよいという雰囲気ではなくなります。いつの時代でも細かい情報に詳しいオタクはいますが、そういうのは必修科目のように強制されるものではなく、興味を持つにつれてやれば良いものなのに、コンテンツを知ることに目が向きがちです。以前Twitterで驚いた投稿として、鬼滅の刃を水の呼吸も知らずに楽しんでいる大人の方がいたのですが、思い返してみれば僕の若いころは炭治郎!いけー!とかいって何も分からずに楽しんでいましたし、別に知らなくても面白いものは面白かったと記憶しています。案外そういった人の方が世の中には多くて、広告業者の意図を華麗にくみ取って愚直に目の前のコンテンツを受け取るだけの人間が多いということを、東京に出ると感じます。

まとめると、コンテンツの精緻化、詳細化は確かに素晴らしいものですが、同時に呪いでもあるのかな、と思います。やはりそれだけ詳しくなれば他のコンテンツを見る際にも詳細に目が行きますし、新しさの喜びを得るのは次第に難しくなります。スルメの様に噛み続ける胆力によって詳細化の喜びを享受するのも一つの手ではありますが、得られる喜びの質が異なることに目をつぶれないのです。

今まで背景的な議論に終始していたのですが、この新しさの喜びを頭部が肥大化した人間がどう享受し得るか、と考えるともうそのコンテンツの内には存在せず、ただ受け取る存在ではいられないのかなと思います*3。僕は暗黙的に構造主義を求めていた背景に基づいて自然言語処理に興味を持っていたおかげで、シソーラス言葉意味上の関係に基づき整理した辞書・辞典語彙)が好きで、物事を包含関係や関連で捉えることを考えていた時期がありました。例えば、動物ー哺乳類ー犬ースコティッシュフォールドといった包含関係があり、コンテンツに当てはめると「俺は大量の犬を見てきたから、どんな犬を見てもスコティッシュフォールドとの違いで捉えてしまう」わけです*4。犬に詳しくなり続ける人生の中で犬の精緻化を続けるというのは研究でも界隈によってはある話なのかなと思います。機械学習分野はここ数年で革新的なモデルが大量に登場しているので、新しい概念の発見→それを活用した可能性の模索や詳細化→新しい概念の発見のサイクルが進んでいるように見えますが、詳細化がひたすら続いている学問もあるように見えます。僕の最強の地図が完成するのはよいことですが、パラダイムが今後永久に変わらないのは周りから取り残されて枯れ果てた知識になってしまいます。動物完全に理解したレベルのことを述べてくれるならよいですが、人間の営みで完全なものは難しいので、インクリメンタルに発展していく方が現実的じゃあないでしょうか。話が少し脱線しましたが、詳細化のみを続けると先には枯れ果てた完成図ができあがるか詳細化のゲンセリアの奥深くに迷い込むかの道を辿ることになるのではないかと思います。

ここまで考えてきて、やはり新しさの喜びはそのコンテンツ自体から受け取ることはできないのかな…と心が折れました。ではオタクは何をしているのでしょうか?コンテンツを擦り、二次創作を生み出したり、影響を受けてコンテンツの作り手に変わりました。学生として研究をしていた時も、既存のコンテンツを詳細化する試みも”生み”の試みであり、存在しない何かを存在させることであったのは理解していました。

暫定的な結論として、「妥協案としての喜びの享受としての創作」と書いておきます。人形を作り始めて約2年経ち、技術及び思想面での未熟さをより一層深く感じていますが、作ることによる喜びは、見ることによる喜びと質が異なることを知りつつあります。僕が初めて人形をしっかりと見たのは2018年の2月に静岡のミワドールさんにお伺いした時のことですが、当時は綺麗な人形さん的な感想しかいだけませんでしたし、形式知としての説明文を少し読んだ程度でした。ただ、自分で作ることでの発見は、その肉体のデザインの全てが自分の裁量で好きに作れる*5ことや、形式知として確立された技法の中に暗黙知的な技術がどれほど隠されていたか、そして作り手の新しいものを作り出そうという気概を同じ土俵に立とうとすることなど、多岐に渡りました。

僕は手が不器用で中々細かい作業が苦手で、完成を目指しつつ今回は瞼を綺麗にするけど手の造形は次回に持ち越したり、と永遠に終わらない作業を切り上げつつ、自分を乗り越えることの難しさを感じています*6。逃げずに追い込む、というのを常に続ける胆力がないので数を作りつつ少しずつ進めていますが、案外できることが増えるとその気力が生まれてくる感覚があるので、最近まつ毛を綺麗に貼ることができたのを覚えておいて次は他の部位もうまくやってやろうと思えるようになりました。反論はあるかと思いますが、アジャイル的に少しずつ良くしていく進め方が創作においても必要かなと思います。Done is better than perfectは最終的なperfectを目指すうえでの指針と解釈していますし、最高の研究をするのに一生勉強し続けていたら死後に論文を書かなきゃいけないですしね。惜しむらくは一度完成させた人形に機能追加的にクオリティを上げる手段に乏しいところですかね、ソフトウェアならリファクタリングや機能追加ができますが、人形は手を差し替えるみたいなモジュールレベルでの大きな変化を求めますし、それは結局一人新しい子を作るのと変わらないように思います。

作ることによる喜びの享受は作り手としてだけではなく、受け手としても影響があるように感じます。人形展で人形を見た時に、多少は苦労が理解できるようになり、何に注目してそれを作っているか意識できるようになりました。一方で非対称的に、あくまで受け取る側はそれを完成品としてしか見られないということも感じます。特に人形展だと数十~数百時間かかって作られたそれらを数十分眺めるくらいのコミュニケーションしかとらないわけですから、一緒に暮らして長い時を過ごすくらいのことをしないと結局はインスタントな消費になってしまいます。作り手、受け手の相対化について考えると、生まれるまでを一緒に過ごすことが、作り手の本人にしか享受できない喜びなのかなと思います。

僕は人形を作る理由として、2つを挙げていて、上述したような作り手としての創作の過程で生まれる価値の享受と共に、この世に存在しないから作りたいというのがあります。普通の人間なので、前者的な動機で体が鉱物でできていて内部が露出していると嬉しい!みたいな感情で背中に水晶ジオードを埋め込んでみたりしたこともありますし、オーソドックスな”創作人形”としてインクリメンタルな成果の過程として作った子もいますが、この世に存在しないものを作りたいですね。軽めの蒐集癖があるのでこの前も小ぶりなガーデンクォーツをお迎えしたりしましたが、この世に特定の概念を具体化した人形がいれば、それだけで十分嬉しいです。

丁度2018年の初めに、橋本ルルというドールモデルの方を知りました*7。着ぐるみで顔を被り球体関節タイツを着用して踊ったりするのですが、いわゆる中の人は入れ替わることができ、その時に既存の肉体の枠組みから抜け出せる可能性を感じました。要するにガチャピン方式です。今ではVR空間で人々が自由な肉体を手に入れて精神バトルを繰り広げていますが、現実世界で肉体からの逃れができると嬉しいです。学生のころからロボットである意味、バーチャルである意味の線引きを考えていますが、現実の存在感や触れられることの価値は、現状の、特に市販レベルのVRの精度では代替できないものかなと思います。今憑依できるハードウェアとしてPepperを含めた人型ロボットを眺めてみると、ある種のキュートさはあるが美ではない…と感じで、作るしかないわけですね…美しい憑依先の肉体を…俺たちの肉体は生命の維持の最低限が必要ですが、人形の良いところの一つに生命とは無関係な肉体を持つことができることがあり、鉱物であったり、不必要な部位が無かったり、球体のようなモチーフが具体化されたり*8、既存の肉体の枠組みから逃れ、自らの感覚からも逃れていきたいですね。実は、社会という巨大な枠組みからの逃れのミクロコスモスでの表現なのかもしれないですね。

肉体からの逃れの思想は未來のイヴに影響を受けているわけですが、やはり美しい肉体が代替可能な存在であることや、その肉体に宿る精神を模索することができると嬉しいですね*9。検証も兼ねた作業を並行しているお陰で構想から始めると数か月かかっていますが、2023年中に完成の目途を立てないと人生において生み出せる子の数が目減りするのを感じるので、期限を決めつつ進めていきたいですね。作業していく中で規模が肥大化していて大変なことになってきたので、後退のネジを外す覚悟が必要になってきました。もう後戻りできない…

最後に少し趣向を変えた創作の喜びについて述べます。「人間に授けられた過剰なエネルギーを理性的活動に行使して自身の存在を認知することもできず、巨大な仕組みに隷属することを人生の主とする苦しみ」から逃れたいというのが大きいんじゃあないでしょうか。何かに隷属するからには、それを社会や他人ではなく、自らの作りだした目標という幻想にして、それを具体化させるのが最も人間的な人間存在の行使じゃないかと思います。逆に自分しか責任を取れず誰かに任せられない苦しみがあるのでかなり辛さはありますが、少しずつでもやっていきましょうね、”自分”としての活動を。

*1:助けて。

*2:現代の子供に、サンダーバードひょっこりひょうたん島は伝わるのでしょうか。

*3:助けて。

*4:余談ですが、Word2Vecの埋め込み空間をポワンカレ空間に埋め込むことで階層構造をエレガントに表現できる論文があったりして、かなり好きです。個人的にはそれが点ではなく多峰ガウス分布で表現されると更に嬉しいと思うのですが、計算量的には厳しいんでしょうか。現在の研究の動向も追えたら良いですね。

異空間への埋め込み!Poincare Embeddingsが拓く表現学習の新展開 - ABEJA Tech Blog

*5:逆にデザインしなければ曖昧になってしまうのが難しいですね。

*6:岸部露伴も最も難しいことだと言っていました

*7:今は活動されていないのがとても寂しいですが、当時はかなり影響を受けました

*8:身体が球体であることは美しいので、球の美の思想として、「キュウビズム」とでも呼びましょう

*9:未來のイヴの物語に従うと、高潔な精神の持ち主が肉体に入り込まないと、ただ美しいだけのアリシアの焼きなましになりそうですね笑