人間のあるべき姿の探索

思索・人形・エンジニアリング

恋愛について精神分析と共に考える

暴力とは異なった仕方で、ナルシシズムを肥大させるのではない仕方で、他者とむすびつきたくないですか?

現実的な話をするともう結構良い年なので恋愛や結婚を考えた方が良い年になりつつあります。間違った帰納法による定式化を信じて来年はまだ大丈夫…と言っていられなくなってきました。ただ、経験上関係性における他者に影響を与えることの暴力性、特にそれが直接的な暴力に繋がるのは避けたいと感じています。ビスマルクも「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言っていたので、どうにか避ける方法を模索していきます。

…というのが迂遠な婚活の宣言です。まずは精神分析の話をします。

精神分析の話

精神分析(せいしんぶんせき、Psychoanalysis Psychoanalyse)は、ジークムント・フロイトによって創始された人間心理の理論と治療技法の体系を指す。(Wikipedia - 精神分析)

定義はこれとして、実践及び理論があり精神分析に学とつけることもあるようです。精神分析に詳しくなかったので入門書をお勧めしていただきました。

honto.jp

やわらかい文体であくまで入門する読者が理解し易いように、かなり手心が加えられた説明でした。その為、あまりラカンについて理解できたと言えないのですが、精神分析が何を課題とするか、大まかな輪郭がどのようであるかといった程度にはまとまった気がします(書籍の中でも、ラカンは入り口が難しくて途中急に理解した感覚に陥ることがあるが、その間を埋めようとする意図について言及されていました)。ラカニアンからの批判もあるようですが、一旦置いておいて、自分の観点での解釈をまとめておきます。また、久しぶりに現代科学と異なるフレームワークの体系に触れたので、前提を受け入れることの難しさも感じました。その辺りの要領がよすぎると前提を受け入れた先に論理をうまく組み立ててしまいそのまま宗教を作ってしまうので、要領が良くなくて良かったと思います。

まず、印象的に残ったこととして現実界象徴界想像界の捉え方です。昔人間がどのように世界を認識しているかについて興味があり、結局そちらをあまり学ばずにComputer Scienceに進んで記号創発ロボティクスとか計算機や定式化による人間理解に興味を持った経緯がありますが、この捉え方はカントに近いと思いました。実際書籍の後半でそう言及されていたり、そういえば千葉雅也『現代思想入門』でもラカンの説明でカントについて言及されていて、その通りだったようです。違いについて話しておくと、あくまでラカン現実界の方は実在することを前提としている(公理、と呼んでしまうと大雑把ですが現実界の存在の是非は深入りしない)辺りはその先を組み立てたい人間からするとありがたい気持ちになります。また、3つの界の説明で位相的・トポロジックという単語が出てきてきな臭い感じがしましたが、やはりソーカルに批判されていたようで、それについてはその言葉で説明する必要がないのではないか、と著者がフォローされていました。

次に、科学との違いとして、精神分析による分析対象は事後的であり、更に個人的なものである点です。科学といっても広いので特定分野に限定しますが、ある対象の背後に存在する再現性のある一般的なルールを見つけ、それが前提条件を満たせば過去のみならず未来においても起こる蓋然性がある程度担保される、くらいの認識でいます。それに対して精神分析は個人の言葉によって引き出されるもので再現もしないものであれば、予測に使えるものでもありません。実際この辺りは経験しないと何とも言えないですが、科学ではやりづらい部分に強い可能性があり、臨床的な面で興味があります。

また、象徴界に戻ると、その利点は面白く感じました。個人的に象徴界は比喩的に面白いですが実際どうなの?という面があり、数学が発見か発明かという論争に近い捉え方をしており、一旦結論を保留しています。精神分析の手法として、自由連想法等を用いて患者の言葉から何かを引き出そうとするのですが、これを象徴界と結びつける背景として、分析家の共感はあくまで分析家自身の不安定な自己をベースとすることを避けることに繋がり、その点である程度客観性が保たれる点に魅力を感じました。科学やってても客観性ほしいですからね。まぁそう考えると分析家の主観性も歴史に学び…というところをやっていると象徴界の地位が落ちそうですが、観点としては面白かったです。実用的にどうか考える時点で精神分析に向いていないですが。

あと、精神分析の一般的なイメージとして性の話が多いことに対する見解があったのは収穫でした。性を人間の根源的なものと位置付けているのでそこは外せない前提の元、ファルスや母親・父親といった関係性はあくまで象徴でしかない、物理的に存在するそれではないということについて言及されていました。多分ここが精神分析に対する誤解だったのかなと思いますが、実際他の書籍では過激に書かれているものも多いらしく、原著はともかく世の書籍としてはあながち誤解でものかもしれません。

親密性の話

精神分析の話をしたところで、話を元に戻します。次はクイア理論家のレオ・ベルサーニ及びアダム・フィリップスの著書『親密性』についてです。とりあえず1章の話だけします。

honto.jp

本書の構成は第1~3章までベルサーニによる他者との結びつきに関する検討が述べられ、その後フィリップスによる返答が述べられる形式の書籍で、1章は「わたしのなかのIt」というタイトルです。そこでは、まず「精神分析は、セックスをしないと決めた二人が、たがいに何を話すことがかのうなのかを問うものである」との一文があります。そういうわけで精神分析の背景や課題感をつかんでおく必要があったんですね。迂遠ですね。

わたしのなかのItについては話が難しく解釈しきれていない部分やどうやら精神分析の解釈の濫用に対する批判もあるようですが、一旦置いておいて2つの作品が紹介されています。まず最初に『親密すぎる打ち明け話』という映画についての紹介です。かいつまんで話しますが、第一章自体60頁程度なので書籍を買って読んでいただけるとありがたいです。簡単にまとめると、ある女性が精神分析を受けようとしてオフィスに行くと、部屋を間違えて隣の税理コンサルタントの部屋に入ってしまう。しかし女性は相手が税理コンサルタントだと気づかずに夫とのことを打ち明けてしまい、その後の受診の際に税理コンサルタントの男性から自分が精神分析家でないことを謝罪され激昂する。…しかし、女性はその税理コンサルタント精神分析を続けるよう依頼して精神分析が続き、気づけば税理士の側の語りも行われる、といった感じです。そしてラストの方で女性が違う街に引っ越すのですが、しばらくして税理コンサルタントがその女性に会い、熱い抱擁を交わす…のではなくまた会話を続ける、といったものでした。

もう一つの話として、作中で登場人物が手に取った『ジャングルのけもの』という書籍です。こちらについて作中では中身を言及されていなかったようですが、重要な書籍でItとは何かについて説明があります。ここを解釈できるとItがなぜ後述する非人称的ナルシシズムに繋がるのか理解し易くなるはずなのですが、まだ解釈できていないので現時点ではやめておきます。

じゃあどうするか

人称的ナルシシズムから始めます。こちらのブログを参考にしています。

hagamag.com

問題意識について、上記ブログ及びそれと同じを多く引用させていただき恐縮ですが、以下の問題を気にしています。

ついでフロイトの言葉がとりあげられる。「フロイトが強調したように、自己とは、自身の利益や生存にさえ敵対するとおもえる世界を自己化しようとするのである。人称的なナルシシズムは、自己化的な所有の極限形態である。それは自我の思弁的なイメージに還元された世界である」(『親密性』洛北出版195頁)

一見すると奇妙なこの解決は、人称的なナルシシズムを推し進めることで、世界と衝突し、極限的な事態に陥ることを防ぐ狡知ともいえる。だが同時にそこには罠もある。それはその衝突において自我のさらなる誇大と、それにともなう崩壊を招きうるからである(その場面はまさに戦争などの例で示される)。それに対し、ベルサーニが提示するものが、まさに「非人称」なナルシシズムなのである。

自我のさらなる古代と、それにともなう崩壊という部分、感覚的には結構経験があるような気がしています。親密性の序文で、以下の示唆的な言及があります。

わたしたちが愛したり欲望したりする重要な他者が、自分自身から隔てられ、「わたしたちの支配の及ばないところに」いるとわかることに自分自身の性が依存していること、このことを精神分析ははっきりさせる。だが、こうした理解こそが、かくも多くの暴力を引き起こすのではないか。

恐らく象徴界ナルキッソスの話を絡めた方が背景としては良いのですが、現実的な話として起こっているように思います。補足として、フロイトの指摘した「小さな違いの自己愛」は、外見や性質が全くかけ離れたものどうしては生じにくい敵意が、似た者同士の間では生じやすいことがある、というのはわかる気がします。思弁による形式化を進めるのは分析哲学などでは大事ですが、まず現実を見つめてみるとそういった事態が起こっているのでそれを対処したいですね。

現実的に…元々持っていた暫定的な解として、相手を所有しない愛というのはあり、そういった点からポリアモリー倫理について興味があったのですが、クイア(というにはおそらく異端)の視点では人称的ナルシシズムからの解放につながるようです。先の映画の話に戻ると、どちらが治療者なのかわからなくなったカウンセリングを以下のように述べています。

「いままさに、性的な切望や不安から脱した非人称的な親密性をともないながら、おそらく彼らは「自由に考え、感じ、はなす」ことが可能になるだろう。彼らが再開したものは、相互的な擬似的精神分析などではなく、特殊な会話なのであり、さらにいえば、会話を進めるという条件によってしか拘束されない会話なのである」

二つ目の解として、これは映画からくみ取れるベルサーニ的な解釈の仕方とは異なる部分が大きいと思いますが、一定のルールに基づいた会話による関係性があるように見えます。その対象は自己それ自体でも、客観視された自己でも、または何か別の対象でも良いと思うのですが、このルール自体が相手それ自体を目的とするのではなく共通の第三者であり、その枠組みを志向する姿は暴力性から遠ざかる希望があるように感じます。

募集

彼女募集中です!