人間のあるべき姿の探索

思索・人形・エンジニアリング

失恋の話

話し言葉」はフランス語で「パロール」、「書かれたもの」は「エクリチュール」と言います。パロールエクリチュールという対立です。

古代から、書かれたものよりも実際に聞いた話の方が真理の基準である、とする考え方があります。

千葉雅也『現代思想入門』より

この対立の話は過去に多くの人が通り過ぎているので再度踏み入ることはしないのですが、エクリチュールには真理という点において一定の価値があります。電話だけではなく、Slackやメールでやりとりを残しましょう。

それはそれとして、書かれたものはその時点で過去のものになっているという考え方が好きです。実際には発話内容もタイムスタンプが発行されてその時点のものとされるのですが、人間はどうにもこれを人間の人格に付随してアップデートされる状態の一つと捉えているようです。勿論文章で残されたことについても長期間における一貫性を求められることがありますが、発話は尚更その傾向が強いように感じます。実装によってはどちらもイベントソーシングで実装可能ですが、発話は人格マスターのカラムとして保持される信条ステートのようです。

エクリチュールがイベントという前提に立つと、一度記録されたそれは更新されません。例えばそれが修正されるときは、補正イベントが発行されて、イベントを再生することで最終的なアウトプットとして更新されたように見える文章が出力されます。そして各イベントはイベントストアへのイベントの追加がストップした時点で、最終的な状態が決定されます。それはシステムの運用停止であったり、単純にそのイベントストアへの記録を行う機能の停止であったり、人及び人以外のコンテンツの観測される主体の停止です。本当は誰かが観測しなくてもイベントストアにイベントは刻々と記録されていくのですが、観測者がいないとイベントストアは意味を成しません。

このコンテンツ大量生産・大量消費の時代…幾度かの産業革命によってモノの大量生産が可能になりました。当時は大量生産であるがゆえに、同じモノを大量に生産していました。一方で、少量生産されるモノもあり、職人やそう呼ばれなかった人達が作り上げたものもありました。そして後者は特に狭いネットワークで消費されていました。そして現代は生産されるものが多様になり、デジタルコンテンツの普及により、広いネットワーク上で消費されるものを、よりスケールする形で、低コストに生産できるようになりました。そして、同時にそれらを消費するコストも増していきました。思えば昔はthe Beatlesのアルバムを延々と流していましたが、今はそういった心の余裕がなくなりひたすら新しいコンテンツを薄く摂取し続け、何もかも忘れて表層を舐める妖怪に成り下がってしまいました。大量消費による問題や次善策については時折考えているのですが、ここでは省略します。

そして、それらのコンテンツの消費サイクルが高速であるゆえに、疲弊していきます。全てを摂取できないからこそ、より新しく面白いものを見つける気概を失い、結局は大衆が面白いと評価した査定済コンテンツを流し込み、感想までも考える余裕なく誰かの焼きなましで満足していきます。私はthe Beatlesが好きなのですが、生まれた時点で解散していました。新しいコンテンツが彼らによって生み出されることはありませんし、この十年でテレビ番組のthe Beatles特集も本当に少なくなりました。新しい情報も出てこないので仕方ないことだと思います。

しかし、そこに安寧を感じます。疲弊した心には、生もののコンテンツが一喜一憂する様に身をやつすにはあまりにも精神的負担が大きく、追い続けることでコンテンツの苦しみを一心にうけることになります。この苦しみさえもスケールするのがマスメディアをはじめとした大衆向けコンテンツの辛いところだと感じます。そこで、イベントストアへのイベントの新規追加が停止されたコンテンツに心を寄せることで、繰り返しそれを心に刻み続ける喜びがあります。死には安寧以上の喜びがないのですが、安寧の喜びがあるので、残されたものがイベントを再生すると嬉しい訳ですし、そこに不安がないので、ナマモノよりも美味しくいただけますし、味わい続ける余裕が生まれます。

夢野久作『死後の恋』は語り部の男が主人公となる過去の話をします。それは本当か分かりませんが、もう一つ上のレイヤーとして読者が読む本の中の登場人物としては、インクの染みが確定しています。『瓶詰の地獄』では、ボトルメールに詰められた無人島での兄妹の手紙が3つ紹介されます。それはボトルメールを拾った人には衝撃を与えるかもしれませんが、本の終わりというメタ情報が、もうそれ以上はないことを示します。読書は過去の著者との対話とよく言いますが、エクリチュールの価値の一つはメタ情報としての停止を意味することにあると感じています。私は『うみねこのなく頃に』という作品が好きなのですが、その理由はアンチファンタジーvsアンチミステリーといった構図やそのバトルの形式よりも、物語内の世界の階層構造を意識的に表現し、物語の中の物語のみならず、読者を実体化させて物語がどう読者と関わるか示した点にあると、ここ最近感じています。

余談ですが、新江ノ島水族館にホネクイハナムシという生物が展示されています。別名ゾンビワーム、ラテン語ではOsedaxといい、骨を貪り食うものを意味するのですが、この生き物は鯨の死骸から脂質を分解して栄養を取り込みます。ハイエナのように腐りゆく死肉を貪り彷徨うのではなく、海深くに沈む死骸に体を埋没させて固着する、そんな生き方をする生物が人間以外にもいることは人間を勇気づけてくれると思います。

 

女々しい考えですが、終わった恋には、それ以上の不幸を起こすことが無くなった安寧があります。