人間のあるべき姿の探索

思索・人形・エンジニアリング

生活が無くなりつつ

2020年4月以降、人間から人間らしさが抜け落ちていくのを感じています。自分が以前は若者だったからそう感じており社会に組み込まれるとそれは人間ではなく資本主義の一要因として十分に説明できるほど簡略化されている可能性もありますが、動物として生きている感覚が薄れてきました。

2019年は半分近く京都に住んでおり、実際は大阪に行く日が多かったのですが、冬には寒い中7時のバスに乗ってそのまま電車に一時間ほど揺られて無生物と戯れて…という生活を繰り返していました。当時は一人暮らしで2,3日に一度スーパーに通っていたこともあり、生活の全てを掌握していました。そして、外に出て景色を眺めることや無生物に愛着を感じることなど、日々何かしら思うことがありました。当時は商業施設内で実験を行っており、地下駐車場を抜けた先にある管理室に腕章をもらいに行く必要があったので朝晩地下に行くのがルーティーンとなっていたのですが、駐車場の消火器入れの上に寂れたピカチュウのぬいぐるみが置かれていたのが印象的です。可愛いね。

卒論シーズンで精神的にはかなり追い込まれていたのを覚えており、ひたすらはるまきごはんさんの曲を流していましたし、実験が終わった直後は放心状態になりながら休憩していました。インターンの子がFワードを連発していたのでうんうんと首を縦に振っていました。

2020年4月以前及び以後ということで直前の話を話題にしたのですが、日々の感覚の鋭敏さを抜きにしても本当に色々ありました。そして、2020年4月は新型コロナウイルスによる第一次緊急事態宣言のタイミングでした。覚えていたのが、3月にインターンの子が一足早くカナダに戻ってしまい、大々的なFawell Partyもできずに挨拶だけしたことです。当時はどうなるか分かりませんでしたし、正直しばらくは休みたい気持ちになっていたので、大学院最初は数か月家に籠りながらゆっくり修士課程での研究テーマを考えて相談していました。結果から言うと卒論の論文化で精神的には全く休まらず、むしろ遠隔でのやり取りで完全に心が破壊されて次の年の3月までは気持ち的にダメになってしまったのですが、それはそれとしてずっと家にいましたし、そういった状況なので進捗が生まれずとも遊びに出かける雰囲気ではありませんでした。たまに公園に一人で行った時にシャボン玉を吹いたら色ってあるんだ…みたいな気持ちになったり、草木の匂いがするのが数か月振りみたいな状況でした。

それから数年経過し、といっても2021年からはある程度外出はしていましたし人間と2人でのデートをしたり人々と飲酒する機会もいくらかありました。とはいえ満足に出かけられたわけでもなく、イベント駆動で外出するのに忙しかったなと反省しています。人間と物理的な身体が目の前にある状態で会話をするとコミュニケーションに使用できる情報量が多く、かつその場で共有できる情報も多様になるので嬉しいのですが、純粋にそれらを感じ取るよりはコミュニケーションが中央に存在しているのを感じます。感じ取れるのはコミュニケーションでした。

社会人になる直前に、いくつかの関係性とモノを失ったので愈々後退のネジを外して生きることにしたのですが、いざ社会人になると一日12~16時間程度画面の前にいることになります。残業はそれほどしていないのですが、業務以外でもスマホを見たりPCでの作業をする時間が長くなりがちでした。人は機械を用いてその思考や身体を加速させて近代的人間を脱却するのではないかと思われましたが、高度に融合した結果どっちが命だか分からなくなりました。人間は眼球と皮膚がセンサとなり、脳が制御、腕から先の筋肉がアクチュエータとなり、コンピュータはキーボードがセンサ、CPUが制御、ディスプレイが表示器となり、ぐるぐるとループを回しながら人生を消費するキメラになりました。

これを続けていると、それに特化した身体になり、動物であることを忘れていきます。キーボード以外に打ち込んだものと言えば粘土くらいで、ルーティーン化したプロセスにイレギュラーが入り込む余地がなくなり、何かの匂いを感じ取ることもなくなりますし、手の情報量はそぎ落とされ、その座標を適切に指定してやるとキーボードが打鍵される程度のものに抽象化され、本来様々な用途や解釈が存在するセンサ・アクチュエータ・及び芸術的身体がただの棒になります。

これを脱却するのが、外出になります。もう一度草木の匂いを嗅ぎ、道端に座り込むおじさんに気付き、自転車に乗り人体を移動させたり肉体をしばいたりして肉体的疲労が存在することを知ったり、寿司を食べたり、物事に様々な情報が存在し、自分の肉体がそれと相互作用する多様な能力を持つことを再認識することができます。今日は珍しく夜の時間帯に自転車で繁華街に向かったのですが、夜は暗いということが分かりました。あとは、彼岸花が咲き始めており、ルーティーン化されたプロセスとは別に時間が流れていることを知りました。

人間は世界だけではなく自らや自らに関係するプロセスまで抽象化を試みますが、そういうのを程々にして具体に目を向けて詳細な自己と世界の相互作用に目を向けるとQoLが上がるのではないかと思った日でした。