人間のあるべき姿の探索

思索・人形・エンジニアリング

期待と諦め

ここ数ヶ月,しばらく空いた期間も含めると1,2年ほど考えていたことについて.

期待について

人間関係では,互いに信念を確立する為に互いに心的状態を推定している.これはある程度二者間の関係が対等である必要があると思う.

それとは別に,相手の心的状態を一方的に推定する試みが常に行われている.大凡全ての人間が相手の心的状態を推定していると思っている.例えそれがアイドルとファンといった風に極端な非対称性を持っていたとしても,相手のことを考えるのみであれば,相互作用ではなく一方的で個人に閉じた見方ができる.

ところで,何を推定するのか.人は相手に対して何かしら期待をしている.テストや買い物といった具体的なタスクを行う能力以外にも,自分を信じてくれているか,といった非常に曖昧なものも含まれる.

タスクが決定された時点で,そのタスクを対象が行えそうかどうか予測をする.これが期待だと思う.そして,タスクが遂行された時点で結果が返ってくる.ここで予測と結果の二つの要素が出てくるが,これらの差分が予測誤差となる.例えば,テストで10点しか取れなさそうな人が90点とったら良い方向に誤差が大きいし,90点取れそうな人が80点とった場合,予測誤差は負だが小さい.

 

ここまでは前提として,ここからが本題.

 

多くの人にとって,しばしば人に期待し過ぎてしまうことが問題としてある気がする.*1自分に関係の無い人に対しては特別期待することはないけど,何かしら情があると期待したくなる.予測する能力が正常でも,期待できないのが辛くて現実から目を背けてしまい,予測している以上に高く見積もってしまうことがある.

予測誤差が負の大きい値になるととても辛い,というのがここしばらく考えていたことの暫定的な結論.理想論だけど,適切に期待できる程度に強い人に適切に期待をするのが健全な生き方なのかなと思う.期待できないのは辛いので.

 

もう少しちゃんと定式化して述べた方が伝わりやすいのだろうけど,時間も余裕も無いので割愛.それほど難しいことは考えていなくて,人間に対する期待についてフワフワ考えていた時に強化学習とか報酬予測誤差を思い出したという,それだけ.

https://www.amazon.co.jp/%E5%BC%B7%E5%8C%96%E5%AD%A6%E7%BF%92-Richard-S-Sutton/dp/4627826613

 

諦めについて 

人間に対する諦めは,負の予測誤差を経験した後に過度な期待が許容できなくなって起こるもので,許容できないことは幾分か自分自身の能力によるものだと認識していた為,諦める行為に対して非常に否定的な感情を持っていた.現に,この行為を選択せざるを得ない場面があり,結構気を病んでいた.

 

そこで,とあるツイートを見かけた.

 この投稿を見たときに思うことが二つあった.

  • 諦める行為が仕方ないこと.
  • 情をかけられていた側の人間にマイナスな感情が生じることが仕方ないこと. 

今まで少しずつ物事に対する仕方なさを把握して諦めることに対する抵抗感を減らしてきていたけど,もう少し諦める行為について理解を深める必要があると感じた.

(補足:人間に対する期待は情とは別物で,期待は一方向的で非常に傍迷惑な行為だと思う.それと,情は弱いものに対する情けという意味合いを含むがこの文章の文脈における情は,単純に愛情程度のもの.愛情も一方公的で非常に傍迷惑な行為だと思う.)

 

あとがき

卒論を進める手が止まってしまったので,少しだけ息抜きに文章を書いてみた.

140文字だと文脈を説明するのが難しいなと感じたので,公開するか否かは別にして,ある程度思考がまとまった時点で書き出すのも良いかと思った.

それと,強化学習などのアナロジーを曖昧な前提で用いてしまっているのは許してほしい…

 

 

 

*1:クソでか主語.期待しすぎる人や逆に全然期待しない人,適切に期待する人がいるが,人間の絶対数が十分多いため,多くの人にとってという表現を用いた.