人間のあるべき姿の探索

思索・人形・エンジニアリング

人形になることについての省察

最近人形作家さんのお話を聞いて、人形を作るときにコンセプトが先行しているのか、それとも作り始めるのか…みたいなことを考えていました。結論から言うと単純にかわいいものを作りたい欲求で作るものについては生まれた子を見て感想を言うだけで、今チャレンジしている試みについてはコンセプトがかなり決まっている気がします。というわけで、そのコンセプト及び最近の考えていることについての話です。

人形を作る、そして人形になること、及びその周辺について何だかんだ5年くらい考えたりテーマとして扱ってきましたが、ここ最近は技術に対する敗北という側面を強く感じています。

初めに人形に興味を持ったのは実は人形それ自体ではなくmillnaさんの手がけていた橋本ルルを早稲田大学の人形メディア学の菊地先生の特別講義で見た時でした。当時色々あって認識論や主観に興味があったのですが、橋本ルルの着ぐるみであることを示唆する姿は誰でもその美しい姿になることができる、という魅力を感じさせるものでした。ただ、バレエの動きをするには中の人がバレエに精通している必要があるなど、かなりガチャピン的な側面はあったと思います。

そこから単純に美しいものとして熱海方面に旅行した際にたまたま見つけたミワドールさんできれいなビスクドールを拝見して、強く惹かれた、といった経緯があります。当時は人形のことを何もわからず市松人形のことさえ父親の実家にある程度の認識でいましたし、創作人形に関しては何も知りませんでした。

逆に、当時『未來のイヴ』は読んでいまして、当初から人形を精神を閉じ込める肉の器として認識していました。人形作家的には売り物となって誰かのもとにお迎えされて、そこで一生を過ごすこともあり、それ自体が一人の他者として存在するように認識される方が多いのかなとなんとなく思っています。それが猫のように、人間ほどの存在感もなく話しかけることもないし目を合わせることもない、ただふとした瞬間に何か感じ取れるものがある、程度の存在だと思います。

また、三年間ほどロボットを扱っていて、その中で人間サイズのものもいくつかあり、Pepper、ロボビー、あとはジェミノイドも機会があって触らせていただいていました。特にジェミノイドについては日本で一般人が見ることができる中では一番人間らしい見た目をしたアンドロイドではないかと思います。そこで、ロボットを扱った感想として、彼らが肉の器であることを強く認識してしまいました。

きっかけはいくつかあり、例えば内臓…といってもバッテリーのある個所が綺麗にくりぬかれたロボットを見かけたり、自分が電源を落とせばもう動かなくなる姿を日々見続けたり、その動きによって生命らしさを表出するロボットたちが自律していないと強く感じました。面白かったこととして、例えばロボットの顔のカバーが外されていると一般の方は修理中で動かなくなったと感じることがあるようなのですが、中身を知っていると命令を送るコンピュータとバッテリーさえつながっていれば手がなかろうと頭がなかろうと動くんですね。人間の生きる為の肉体の在り方とロボットのそれは違うというか、ロボットの死に対する直観がだいぶ変わり、バッテリーががらんどうになっていることに死を感じるようになりました。もちろん動いているだけが生命かというとそうでもなく、アンドロイドも定量的なことは言えないですが多かれ少なかれ不気味の谷に落ちているような感じがあり、部屋に入った時に机に伏している姿に立ち会う瞬間が一番リアリティを感じました。

そんなこんなで、ロボット…というと勿論若者もそうですがご年配の方のケア用途で研究開発されている種類もあり、そういったところで受け入れられている印象ですが、なんとなく中身を知っていると結局プログラムされた動きだろうと思ってしまいます。それほど複雑なものを作っていないこともあり、自分がコードをよく読んだり書いたものについては、今あの部分の実装が効いているだろうと思いながらロボットが動くのを眺めたりします(勿論かなりデバッグをしているというのはあります)。

人形についても、以前は他者としてみていたような気がするのですが、いざ自分で作ってしまうと眼球をはめ込む姿も見ているし胴体にやすりをかける姿も見ているしなんなら粘土の塊でしかなかった姿も見ているし、あまり一人の他者としてというよりは工芸品の一つのように見える気がします。不思議なもので、ぬいぐるみについてはかなり生きているみを感じていますし、中の綿を見たくはないです。

一方で、その動きが読めなくなる可能性としては、自律及び遠隔操作の双方で進歩があり、まず一つは人間による遠隔操作です。話は単純で人間がロボットを操作して、例えば発話したらそれをロボットから出力したり手を振るボタンをクリックするとロボットが手を振ったり、そういったことができます。それがより高度に、モダリティの種類と質が上がるとなんとなく自分が作った感じがしないというか、実装と一対一で対応づくほどシンプルな動きではなくなってきます。

そして、自律操作を考えると、AI…という表現はかかわってきた人としてはちょっと微妙ですが、ここ最近の発展だと生成系がかなり強く、何かしらの応用でやろうとすれば動作生成も結構パッとできてしまうのではないかと思われます。ChatGPTについて、面白かったこととしてはオセロができたり語尾を変えたりしてくれるところで、自然言語の発話という汎用的なタスクがその内部に会話のルールが存在し、そのルールの適用であったり、ルール下で行われるゲームをできるというのは一つの発見ではないかと思います。Deep自然言語処理界隈だと8種類くらいタスクがあってどれかしらに特化してチャレンジする試みが多く、たまに全体的に向上すると主張するものがあった気がしたのですが、ChatGPTは一般人が納得するレベルでその壁を越えてきたように思います。

話を少し変えて、人形の他者性の話をします。最初のほうに書いた通り、人形といえば他者であることが普通で、その性格やその他の内面を作家さんやオーナーが考えてあげることはあれど、それは自分自身ではありません。そして、ピュグマリオンのガラテアも未來のイヴも、他者としての美少女の肉体・精神を作り上げる試みでした。慣習的には男性が美しい女性を作る構図ですね。自分が美少女になる展開って少しはあっても色物というか王道としては扱われていない印象があります。

そこで、VRSNSは一つ新しい視点を実現可能なレベルで表しているように感じます。VRアバターをまとってワールドを探索したり他者と交流するのですが、自らがアバターになりそれが動き、その動きが自分に反映される点が自らがそのアバターとして存在することを認識するための主体性につながっていると感じます。なりたいアバターといえば美少女のイメージがありますが、結構そうではない存在になりたい人も多く、ケモノであったり無機物であったり、人によって様々ですが、ある程度理想みたいなものはあります。なんにせよ、見た目に関してはなりたい姿になれると言えます。

誰もが自らの望む見た目を手に入れた先に何があるか考えると、俺たちの知性やCommunication力、性格をFullに活かした精神バトルなのではないかとは思っているのですが、今見えている課題をクリアして次の課題を生み出していくプロセスはそれなりに尊いのでやっていく価値はあると思っています。そこで、VRSNSでなりたい姿になれるとは言ったものの、現状経済性やアクセス性を含めた諸々の問題で浸透しきっているわけでもなく、もちろん現実の肉体にも価値があります。人形を作っていると、石膏でできている固い質感や、作ったことはないですがビスクの透明感を感じることがありその質感まで感じられるのはだいぶ先、というか再生産の難しさなど考えるとあまり現実的に来るものではないように思います。

そこで、一つの方向性として、現実の空間に存在する肉体で美になれると嬉しいなと思っています。VRの空間でもできていないので現実の空間でもあまりできることはないのが実情ですが、それでも現実の触れるところに自らが動かし動かされる肉体が存在できていると嬉しいと思って、人形になれるための肉体とその内部の機構・プログラムを作っています。

ここで、意味もなく挟んだような技術の話が絡んでくるのですが、最終的に人間の知性は機械に負けます、少なくとも個人の脳の範疇では限界があるのでそれを拡張したり人間一個人の定義が変わるのかなと妄想しています。正直AGIが来るのはしばらく先だと思いますし個人の定義が変わったり意識の主体が変わったころの話はその時に全て諦めて受け入れれば良いので真剣に考えていないですが、とりあえず人間は自らの種族が一番上だった現在や過去からより上の存在と折り合いをつける生き方に変わっていきます。それは知性だけではなく美も一緒になると思っていて、既にVRの空間では人々が自らの出自から離れてなりたい姿を手に入れることができるようになっています。しかし、現実の肉体はかなり制約があって、僕はロリータ服を着ようと思うと特に肩幅に問題があり、ほかにも色々肉体の制約があって着られるものがほとんどありません。メイクや整形に関しても、正直ベースの肉体の制約がかなり大きいですし、そこにコストをかけられるかどうかで決まる人生はかなり見ていてつらいものがあります。

それを解決するために、現実空間の肉体になれることを示すと価値があるのではないでしょうか。まぁ最終的には人間は敗北するのでその過程で誰かが解決する問題ですが、今の段階における一つの解を提示してやることが自分の為せることではないかなと思っています。

ここからは余談ですが、これを書いている動機はいくつかあって、まず自分の思考の整理です。人形になれたら展示でもやって人に面白がってもらいたいと思っているのですが、その時に論文調に本をまとめてもよいかなと思っています。結局人形それ自体に価値があるというよりそれが示す可能性とかコンセプトを表現したいので、そのコンセプトは文字としてより明確に残っていてほしいです。その時に、一から書くのはかなりめんどうなので、こうやって草稿代わりに書いています。そして、後退のねじを外す目的が大きくて、結構色々な人に自分の試みのことを話しています。そうすると期待だけが膨れ上がって自分の進捗にかかわらずやらなければいけない気になってくるんですね。人形といいながら現在はプログラミングやモデリングが占める時間がほとんどですし、なんなら機構についても造形についても一人でやっていると分からないことも多く、それだけに時間がかなりかかります。ある程度多方面で技術を蓄積して見通しが立ってきた現在でも、現実的なレベルで物を作るのに一年くらいかかる見込みでいますし、完全に自分の趣味でやっていることなので筆を折ればいつでも折れるんですね。そこにプレッシャーをかけるために話しています。一応、話している中で実現したら面白そうと声をかけていただくことが多いので、尚更プレッシャーがかかり大変な気持ちになっています。

今は内部の機構を作りこむためにモデリングをしては印刷してうまく動かなかったり動いたりを繰り返していますが、何とか形にして、自分の欲を満たしていきたいです。為すべきことを為していきましょう。