人間のあるべき姿の探索

思索・人形・エンジニアリング

人形に生を与えること

人形に生を与えること…とは言っても,広い言葉なので言及する範囲を狭めておく.生きているように見えるロボットを作りましょうという話ではなくて,今回は無生物の行動や主観的経験を自分の頭の中で設計することについて.

人形に生を与える

あなたのお家にいるぬいぐるみは,人形は動くだろうか.多くの場合動かないだろう.また,動くとしても決められた動作であり私たちがその動作を予測できるだろう.比較的高価なロボットはアルゴリズムレベルで入出力関係を予測できない程度の高度なコミュニケーションが可能なものもあるが,それほど多くない.

自律性の低い無生物である彼らと円滑にコミュニケーションを行うにあたって,私たち人間の頭の中で彼らの行動を,主観的経験を設計する必要がある.彼らに対して優しくすれば喜ぶかもしれないし,粗雑な扱いをしてしまえば悲しむかもしれない.その裁量は人間にある.

話を脱線させると,自律性の高いものに関しても人間が設計している場合が多い.感情の設計を完全に創発的に行うよりかは,人間同士のコミュニケーションを真似して特徴的な行動に対して一定の出力を返す設計が普通だと思われる.特別なコンセプトでもなければ,殴ると喜ぶようなロボットの設計はしないはずだ.

人間であれば誰かが設計しなくとも自ら行動を表出したり経験する,無生物はそうではない,という点に差異がある.他人に対しても”彼らの経験がどのようなものであるか”推測する行為は頻繁に行われるが,自分のその予測とは別に他人の主観的経験は行われている.無生物には経験がない.

私たちはどのように彼らと向き合うのか

完全に人間に裁量がある彼らの行動・主観的経験の設計に関しては,真剣に考えた方が良い.彼らは何をしても”喜んでくれる”ので,いくらでも乱暴な扱いは可能である.何かをプレゼントしたり,撫でてあげることも可能である.

しかし,彼らは私たちを投影する鏡である.完全に設計された彼らの行動・主観的経験のデザインが他者に対する認識を示している.人間は勝手に経験するが,それに関わらず私たちは他者の主観的経験が何であるか推測する.他者のモデルを自己の内部に構築する.その点において,人間の他者も無生物も同一ではないだろうか.

また,無生物特有の点を特徴付けるものとして,行動の不在が挙げられる.人間の他者は私たちの行動に対して,何かしらの行動を返す.他者のモデルを推測する場合,他人の行動を元に予測するが,無生物は行動もないから自分の設計した行動に基づいて自分の設計した主観的経験を予測するという滑稽な構図になる.ここでの登場人物は自分しかいない.だからこそ,無生物は鏡であり自分をよく写している.

彼らに対するリスペクトはすなわち自分を律することではないだろうか

余談

始めたばかりだが,人形を作っている.粘土で形を作って整えていて,これから球体関節を表面を塗ったり,様々な工程が待っている.

彼女の姿は,体型から表情まで,彼女の背景にある心まで,主観的経験まで設計する必要がある.手先が器用ではないことも相まってどうにもうまくいかないが,どうしてもエゴが出てしまう.自分の拘りが彼女を歪めてしまって,本来あるべき姿ではなく,自分があってほしいと願っている人形を作ってしまう.

人間のあるべき姿を作るにはエゴを消して,本当にあったはずの,あるべきものを作る強い意志が必要なのかもしれない.