人間のあるべき姿の探索

思索・人形・エンジニアリング

独白

1

これはある一人の男による恋の物語であり,些細な喜びであり,苦しみであり,それ以外の何かではない.

2

鬱屈とした情勢に楽しみを見出せずにいた.どうやら怒られるストレスや睡眠不足というのは体調にも影響を与えるらしい.常に頭に靄がかかった状態で出社し,靄がかかっているので何を怒られているのかも分からず,フワフワと頭を動かすだけの生活をしていた.努力を積み重ねるだけの余裕はなく,即時的に喜びを得られる,買い物や食事,ゲームを退社後にするだけの生活に絶望していた.

休日の昼,無い希望を探す為に近所の雑貨街でなんと無しに散歩をしていた時,それはありきたりな出会いだった.都心から離れ比較的落ち着いた駅前,若者で賑わうアウトレットショップ,数人のおじさんが立ち読みをしているコンビニ,それほど混んでいない郵便局,地元の人は興味のなさそうなブランドもののアパレル店,それらを横目に面白いものを探して歩いていく.年配の店主がゆっくりと珈琲を入れそうな古ぼけた看板のカフェ,よくわからない名称の歯医者,蔦が絡み切った民家.そしてビルの三階にある古本屋にたどり着いた.

入り口には古ぼけた金属製のプレートに,順番に金物店,何かの事務所,古本屋の名前が刻印されていた.周りには誰が貼ったかわからない安物のシールが何枚か貼られていた.ビルへと入る階段はとても急で,転ばないよう気をつけつつ左右を見ると,地元の中学校のオーケストラの演奏の案内や,公民館のイベントの案内といったありきたりな貼り紙があった.階段を登るうちに,それらが怪しげなショーや古物商の展示会の貼り紙へと変わっていく.

そして店のドアを開けると懐かしい匂いと共に視界が大量の本に埋め尽くされる.店の真ん中を大きな棚が仕切り,人がすれ違うことのできない程度に本が並び,足元には昔のおもちゃや写真が置かれている.ビル自体それほど大きくないが,その狭さを強調するように所狭しと物が存在していた.
手前の方から早速本を眺めてみると,好みの本が見つかった.京極夏彦江戸川乱歩森博嗣なども置かれている.更に歩みを進めると,丸尾末広といった感じで,店主の趣味が色濃く出ていた.恐らく道楽でやっているのだろう,店の奥にチラッと見えた店主らしきおじさんは,案の定というかレジで珈琲を飲みながら本を読んでいた.

安心感のある空気に少しばかりワクワクしながら奥に進んでいくと,夢野久作作品が並んでいた.そういえば,友人から借りっぱなしで返していないタイトルがいくつかあった,見つかれば自分用に買っていこう.
「あ,これだ,瓶詰の地獄,丁度良いから買っていこう」
丁度欲しかったタイトルを見つけ手を伸ばした時,その声は自分の口ではなく,目の前にいる彼女の口から発せられた.

同じ本を手に取ろうとして,手が触れる.一目惚れだった.長い黒髪に黒のワンピースを着た彼女の,メゾソプラノの透き通った声が耳に響いた.
「あっ…すみません…本を探すのに夢中になってしまって,気づきませんでした!」
「いえ,こちらこそ…あなたもこの本,買おうとしてたんですか?」
「そうなんです.この店にはよく来てるんですけど,結構好きな本が多くて.それで,次に読む本を探していたんです.」
偶然というか必然というか,趣味の合う人なのかもしれない.こんな店によく来る時点で必然なのだろう,僕は嬉しくなり,今まで読んだ本の話をしようとして,止まらなくなってしまう.彼女は笑顔で相槌を打った.きっと,こんな人は他にいないだろうと思った.読んでいる人も唐突に思うだろうか,僕も心臓が高鳴っていることに気づいて驚いた.

そして,彼女をデートに誘った.

3


初めて出会った時と同じ街の同じ古本屋で女性に会い,挨拶をした.以前会った時のように本の話をし,女性もそれに相槌を打ちつつ,感想を述べた.ミステリーの考察なんて話もした.あれはノックス十戒の八番目に従っていないからどうとか,実は心理的描写だけではなく起こった出来事ですら,探偵の存在しない場面では信用できないとか,作者との信頼関係によって成り立つとか,ミステリーにまつわるとにかく色んな話をした.勿論お店の中なので店主にはそれらが聞こえていたのだろう,チラチラとこちらを見て,しまいには珈琲を置いて立ち上がり,会話に参加してしまった.

それでも店主にとって迷惑ではないらしいことが分かり,結構な時間会話をして,気づけば夕方になっていた.店主は呆れつつ商品の本を一冊取り出し,読み始めてしまった.

4

デートはずっと古本屋で行われた,と言っても,ミステリー談義をしているだけだった.
それはとても盛り上がり,一日中過ごしてしまうほどだったことに気づいたのは,閉店間際に店主が読み終えた本を棚に戻した時だった.店主に申し訳ないと謝りながら,店を出た.そして女性に告白した.自分の鬱屈とした日々に,希望が現れたこと,それが今告白をしている相手であることについて,思いを述べた.

そして,彼女は「こちらこそよろしくお願いします」と言い,その告白に応じた.

5

物語を書き終えて読み返している内に,男はたまらなく悲しい気持ちになり,同時に動悸が止まらくなってしまった.
「なんでだ,なんでいつもこうなんだ…僕は…僕は…」
頭の中をグルグルと言葉が飛び交い混乱する中,気づいたら大きな箱の中にいて,目の前には歪んだ円を描いた太い紐がブランと垂れ下がっていた.そこに引き攣った笑顔の頭を入れて,椅子を蹴り,自らの首をキュッと締めた.この一連の手順により,頭という猫箱を永遠に闇の中に閉ざした.

6


次の日の朝,女性が出勤する為に古本屋の前を通ると,何やら騒がしい様子だった.店主が珍しく慌ただしい様子で階段を駆け降りたのだろう,肩で息をしながら,携帯電話を手にして怯えていた.店主に何があったか事情を聞く必要があっただろう.
しかし,何かの勘なのか,女性の足は彼女ではなくビルの三階に向かっていた.暴いてはいけない箱の中に足を踏み入れた.

ビルへと入る階段はとても急で,女性は転ばないよう気をつけつつ三階へと駆け上った.入って直ぐのレジの前には,入れたばかりであろう珈琲が湯気を上らせていた.何かがあった場所が,手前でもレジでも無いことに気づき,恐る恐る残された場所を覗き込んだ.店の奥には自分より背の高い男のぼうっとした影がいることに気づき,ヒィと小さな悲鳴を上げた.その男が誰であったか,そして何をしていたかに気づいてしまい,大きな悲鳴をあげた.
苦痛に歪んだ頭が,胴体と四肢をぶら下げた状態で宙に浮いていた.いや,宙に浮くはずもなく,頭から天井へと一本の太い影が繋がっていた.

小説の中ではありきたりだが,実際に遭遇すると異常な光景に,腰が引けてしまった.しかし,不思議なことにその頭は安堵の表情にも見えた,大家は異常に対する異常を重ねることで正常を保とうとした.彼はその表情の理由を知る為に,部屋を物色した.
足元には,雑貨屋で買ったであろう小綺麗な装飾のされた箱に,二つの紙束が遺されていた.恐る恐るそれらを手に取ると,一つは私小説らしき数枚の原稿で,男のありきたりな苦しみと,ほんの少しの喜びの日々が描かれていた.
もう一つは「遺書」と書かれた手紙だった.死体の目の前で遺物を暴いてしまうことの重大さなど忘れ,読み進めてしまった.それはまるで,目の前に浮かんでいる頭がそのまま喋りかけているようだった.

「どうか,僕の気持ちを暴かないでください.しかし,自分のほんの少しの誠実さなのか,あるいは悪戯心なのか,この文章を残さずにはいられませんでした.自分の気持ちを,どうか知ってほしいのです.あなたに暴いてほしいのです.」

女性は恐ろしくなり,箱を閉ざしてそのままゴミ箱に捨ててしまった.