人間のあるべき姿の探索

思索・人形・エンジニアリング

AIの絵のやつ

ここ1,2週間でかなり高いレベルで絵を出力できるAIが登場したとして話題になっていますね(確かにレベルが上がったとは感じますが、実際このムーブメントは少量利用が可能で誰でも(計算資源があれば)使えるようになった、という障壁が低くなったことに起因している気もします(研究界隈ではSOTAを争っていたわけで、それらの人たちは近いレベルでの出力物はずっと見ていたと思います(とはいえ最近の動向を見ていると資金力のある企業が話題になるものを出しているので結局計算資源が障壁になっていたのかなと思います(スケーリング則の話もあるので))))

それはそうと、現状のAIはある程度明確に定義された入力と出力の関係を結ぶ能力が高まっているように見えて、その定義を越えたり、定義を自分から決定する方策を変更したり、(話は逸れますが)自分からそのデータを取りに行く一連の流れとしての知能に至るにはまだ遠いのではないかと思います。

そういうあたりにムカついて解釈のめんどくさそうな文から書き始めました(”(”、”)”で構文木を作って図示すれば明確な構造になるので、それを現状のTransformerとかができるか気になりますね)

 

そんなこんなで、現状のAIでしばらく達成できなさそうなものを考えていましたが、ある程度重複する部分も含めて三つほど思い当たるところがあります。まず一つ目は先にあげていた汎用人工知能的な話です。

Human-in-the-loopという概念があって、人と機械がその出力を相互に調整するループによって何かを出力する、というのが今のAIの限界なのかと思います。一発目の出力で何かを達成する、というよりは人間がそこからより近いものを選定したり、その出力の具合からより良いクエリ文を考えたり。個人的に印象に残っているのは東大の五十嵐先生の研究で人間がスライドバーでAIの出力物の良しあしの点数付けをしたら学習の速度が上がったことです。

二つ目に、関連する話として人間の尺度が明示的及び暗黙的に含まれている、というのがあります。先のスライドバーの話もそうですが、モデルを学習する際の評価基準は数式に落とし込まれているとはいえ人間が決めた尺度になります。評価関数以上に、データおよびそのラベリングは人間が決定しているものになります。そして現状すでに人間が分かっている価値観のもと生まれた出力物たちを見て良いとか悪いとか言っているので、再生産の能力が高まっただけのように感じます。もちろんそこから創発的な何かが生まれることはありますが、そこにも限界があるというか、結局人間が見出す必要があるのかなと思います。

三つ目に、ステートメントのなさがあると思います。人間がアートをやるとき、多くの場合ステートメント(ここではその作品の背後に含まれる思想全般とする)があり、ただ出力されたそれではなく、背景を含めた全体としての価値があると思います。ただ、現状AIってやつがそれをやっているかといえばNOで、そこに価値を付与するなら純粋な出力物によって評価される他は”AIが作った”という価値で、これは陳腐化すれば価値が落ちる、新規性依存の価値だと思われます。技術的な面と思想を混同するのはあまり良くないですが、絵に限って言えば背景みたいな曖昧性をある程度含むものは出力できますが、人間を出力するときただの肌色の塊になってしまって腕の生え方とか眼球の数とか、結構崩れてしまうのはその明確なルールが強い制約になっていないからだと思います(今でもノーフリーランチ定理って解消されてないんですかね(であればより強いルールを適用しようとすると結局手作業で作ることになりディープでポン!できないわけで))。そういう意味でも、ステートメントを生み出し、それを軸にものを作る人間が必要で、AIはツールであると思います。

ただそれでも、奪われる仕事は確実に増えていきます。この前読んだ小説の書き方の本で、自分の文章の癖を盛り込むよりも誰でもかけそうな文体の方が世間に受け入れられやすかった、読みやすかったというのが印象に残っています。おそらく前者的な仕事は残れど、後者は”再生産”しやすく、その生産自体の過程はとってかわられるのではないかと思います。絵についても、風景とか見ているとそんな感じがしますし、明確なルールに則った強い癖を出す必要が無ければ割と早い段階で飲み込まれると思います。

100年くらいのスケールで見たら上記の根本的な課題も人工的に”再生産”されて飲み込まれるだろうと思いますが、まぁ100年後の今頃にはみんな死んじゃっているから気にせずここ数十年吞み込まれないために安易に再生産されない価値・概念を作っていきたいですね。

 

それはそれとして、主体の価値とかもあるんじゃないかな思います。自分の主観で言えば、意識ある主体こと人間の自分が人形を作っているのは楽しいという意識がありますが他人が作っているのを見ても作る楽しさは経験できないわけで、評価云々ではなく自分がやるというのは自分にとって価値のあることです。

また、この前石の本を読んだのですが、石の断面の美しさはその偶発性が運命に昇華するによって価値が担保されている節があると感じました。そういう点で、明確な入力に対して出力が決まることで安易に再生産されるそれの価値は、真逆です。ルールの模索による再生産領域の拡大は科学の領分であり、この拡大は不可逆的ですが、それでも偶発性に依存する価値は吞み込まれないと考えています。人間も昔は偶発性の塊だと思っていたのですが、教育や環境による制御が発達してきたので、人間もかなり制御可能な存在に成り下がってしまったのは少し悲しいですね。この二項対立自体先細りの結末しか見えないので、新しい軸を見つけて俺たちの未來ってやつを獲得していきたいですね。

 

(追記)それはそうと、アナログ絵のあの質感、触った感じとか匂いはしばらくは再現されなさそうですね。