人間のあるべき姿の探索

思索・人形・エンジニアリング

石の偶然性

『石が書く』という書籍を購入しました。

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石というモチーフはしばしばフィクションや造形の素材として用いられています。鉱石は種類ごとにパワーや意味合いを持ち、その見た目だけではなく文脈の中に存在しています。僕自身人形の背中に水晶のジオードを埋め込み身体内部の表現を試みたり、石には興味がありました。

ロジェ・カイヨワは書籍の中で石の断面について語っています。石の断面は偶然の産物であり、切ってみて初めてその姿を見せます。しかしそこには何か意味を持った造形が”彫られて”いるように感じ取ってしまう、という魅力について語っています。天井のシミが人の顔のように見えるというとつまらないもののように思えますが、石それ自体の美しさの中に何かが描かれているのを見ると確かに惹かれるものがあります。

書籍の中ではあばら家に見立てた石の話や、化石が以前は生物の亡骸ではなく自然の戯れによって出来上がったという説が存在していた話、そして芸術家が石の上に絵を描いた作品の話などがありました。絵を描く人の意地として美を自分の力で描きたい気持ちはあると思うのですが、それを越えて絵の素材とすることを強制する力を持っている石には何とも言えない気持ちになります。実際美術をやっていた人間が石の偶然性の魅力に取りつかれて活動をやめてしまうこともあるらしいです。

石の魅力について考えると、やはり偶然性は欠かせないのではないかと思います。そしてこの偶然性は科学技術の方向性に相反する試みであり、一つの希望ではないかと考えています。現代科学といえば、現象をモデル化しそれを確度高く再現することが求められています。今話題のイラストを自動生成するシステムについても、大量の学習データの点を空間に埋め込み、その空間の中の点から再構成されるイラストを補完するアルゴリズムで成り立っているので、モデル化から再現を行う枠組みとして考えれば大それたことは行っていません。さらに言えば、データ点が貼る空間内の点の補完は本質的に新しいことは行っておらず、枠組みは定式化され閉じた系の中でのImiationに過ぎません。誰が何を行っても同じ結果が出る、その進歩の中に芸術家を含めた人々が呑み込まれていくわけです。

逆に、石の偶然性はその偶然性にこそ魅力があります。例えば人工的に形作られたダイヤモンドはその見た目の美しさには魅力がありますが、それは技術によって成り立っており、想定されたもの以上にはなりません。しかし、たまたま見つけた石の断面は唯一無二の存在でありそこに意味が見出されるごく個人的な経験に意味があります。この偶然性を得るのは難しく、そして自分が他の主体とは異なった唯一無二の主体であることを保証してくれる存在になります。そのプロセスの中に、技術に呑み込まれることで他者から価値を認められる機会が減ろうとも自らが主体となった経験には自分にとっての価値を見出すことができる希望を与えてくれるのではないかと思います。

 

そういうわけで石を買いました。

オーロラを思わせる薄く透明なフローライトです。断面とはいいつつ表面がえぐれており赤茶色の傷跡が残っています。ここが地上を思わせる山、観測基地、空へとつながる狼煙といった上下を規定するアクセントになっているように思います。光を当てて透かして見ると、稲妻のようなひび割れが内部に見えます。透明故に角度によってその表情が異なるのはとても魅力的でした。

月並みですが瑪瑙です。だんだんと色が深くなる構造は深海をのぞき込むさまを思わせます。本来であれば水面から深海まで見通すことはできないですが、その断面故にそれを可能として、このシンプルな構造の中に一つの世界を閉じ込めているので見ていて飽きません。上部には断面の層を貫く穴が開いています。瑕疵としてとらえることもできますが、やはりというか、石が描く世界が断面においては平面になってしまうところを複数の層が存在することを示す穴によって一つ上の次元を想像させてくれる効果があるように感じました。

 

余談ですが、かたく、意識を持たない主体であるところの石には安心感があり、それは人形やぬいぐるみに感じる人未満の安心感があるように感じます。人形について考える際、人間の境界、ぬいぐるみとの境界とよりヒトガタに近い部分を考える機会が多かったのですが、今一度より意識の存在しない静的な存在との境界を考えることでそのアイデンティティを見つめなおせたら嬉しい、と思いました。