人間のあるべき姿の探索

思索・人形・エンジニアリング

親密性の実践に向けた考察

ここ数年、特に対人関係における親密性について考えています。以前もレオ・ベルサーニの『親密性』を例にとりながら少し考えていて、久々に現代思想2021年9月号(<恋愛>の現在)を手に取ったので、改めてまとまりもなく考えていたことを記述し直してみようと思います。

ベルサーニ『親密性』、第一章 わたしのなかのIt

以前読んだ時の感想は以下です。

恋愛について精神分析と共に考える - 人間のあるべき姿の探索

まず「精神分析は、セックスをしないと決めた二人が、たがいに何を話すことがかのうなのかを問うものである」との一文があります。今回は精神分析とは?という話は置いておきます。

話が難しく解釈しきれていない部分がありあすが、この章では2つの映画・小説作品が紹介されています。一つ目の『親密すぎる打ち明け話』という映画についてかいつまんで紹介します。簡単にまとめると、ある女性が精神分析を受けようとしてオフィスに行くと、部屋を間違えて隣の税理コンサルタントの部屋に入ってしまう。しかし女性は相手が税理コンサルタントだと気づかずに夫とのことを打ち明けてしまい、その後の受診の際に税理コンサルタントの男性から自分が精神分析家でないことを謝罪され激昂する。…しかし、女性はその税理コンサルタント精神分析を続けるよう依頼して精神分析が続き、気づけば税理士の側の語りも行われる、といった感じです。そしてラストの方で女性が違う街に引っ越すのですが、しばらくして税理コンサルタントがその女性に会い、熱い抱擁を交わす…のではなくまた会話を続ける、といったものでした。

これに対する本文での考察として、以下の文章が印象に残っています。

「いままさに、性的な切望や不安から脱した非人称的な親密性をともないながら、おそらく彼らは「自由に考え、感じ、はなす」ことが可能になるだろう。彼らが再開したものは、相互的な擬似的精神分析などではなく、特殊な会話なのであり、さらにいえば、会話を進めるという条件によってしか拘束されない会話なのである」

非人称的ナルシシズムについては、この書籍を通してのテーマになるのですが、ナルキッソスの話に出てくるような自己の肥大化を避ける形でのナルシシズムと理解しています。第一章では、会話という他者が関係性における中心となり、第二章ではゲイによるベアバッキング(コンドームを用いない性交)や乱交による自己の消滅をキリスト教に絡めて述べており、複数の面から親密性とは何かを探っていました。

ここで、会話を進めるという条件によってしか拘束されない会話というのをもう少し深堀りするために、いくつかのテーマに話を展開させていきます。

思弁的実在論

思弁的実在論自体が本投稿の中心というわけではないのですが、その中の考えの一部を考察するうえでの参考とするために紹介します。ここ最近岡本裕一郎『ポストヒューマニズム』を読み進めています。そもそもポストヒューマニズムとは?からですが、とてもかみ砕いた話をすると、昔は神が絶対的な指針として存在していて、人間の行動における究極的な判断基準を神に委ねていました。それから時が経ち、「神は死んだ。」と表現されるように、その基準が人間に委ねられるようになりました。人間万歳というよりは、不安定な人間自身にその基準が委ねられ、前に進まなければいけなくなった不安感が読み取れます。そこから更に時が経ち、個人的には技術の文脈で読んでいるのですが、バイオテクノロジーIT技術の急進的な変化により、既存の”人間”が終焉を迎え、その先に現れる存在のことをポストヒューマンと呼んでいるようです。

ここで、思弁的実在論が登場します。その実態も重要なのですが、まずは問題意識をWikipediaから引用します。

この運動の4人の主要メンバーに共有されている態度として、「相関主義(correlationism)」[7] あるいは「アクセスの哲学(philosophies of access)」を乗り越えようとしている点がある。メイヤスーは『After Finitude』にて相関主義を定義し、「我々は思考と存在の相関物にしかアクセスできず、片方を抜きにしてはそのどちらにもアクセスできないという考え」としている[8]。アクセスの哲学とは、実在に対する人間の優位を説く哲学のことである。このどちらも、人間中心主義的な思想である。

思弁的実在論の4人の主要メンバーは、人間を優位に置くこれらの哲学を転覆しようと試みており、現代哲学の多くに見られる観念論に対抗して、ある種の実在論を擁護している。

大雑把に述べてしまうと(本当に大雑把なので書籍を読みましょう)、観念論や相関主義を否定したかったとみられます。この本の構成に沿った登場の理由としては、アクターネットワーク理論が紹介されていることもあり、人間を中心とした関係を否定することにあります。本書の展開を鑑みると、人間以後の存在を考えるにあたって近代的な人間を中心としたものの見方を変えてやるという基礎づけをやる必要があったと解釈しています。

少し脱線すると、『ポストヒューマン・スタディーズへの招待』では、人間以後(ポストヒューマン)の"人間"が表す対象が白人/男性/ヘテロセクシュアルであり、そうでないものを規範から外れた不完全な存在として扱っていたことを指摘しています。そして、そうした被抑圧的な女性性や身体性からポストヒューマン論の試みが行われてきたことを示しており、フェミニズム観点からポストヒューマニズムについていくつかの議論を紹介しています。具体的には、トランスジェンダー、フェムテック、シンデレラテクノロジー、生殖技術といった議論を展開していて、それぞれの議論がとても興味深いです。

特に、ブライドッティの著書『ポストヒューマン』を引用している箇所で、「フェミニズムは、男性優位の近代的人間観を批判するための基盤を提供してきたのだ」という部分を読んだときに合点がいったのを覚えています。生殖技術の話ではミシェル・フーコーの統治に関連する話が登場したり、かなり切実に人間(ですらないとされてきていたが)に対する規範を乗り越える重要性を述べています。また、ブライドッティの別の言及である「<人間>を特権化してきたヒエラルキー的関係から離脱する、ポスト人間中心主義的な転換の為には、主体の側がある種疎遠になり、徹底的に再配置されることが必要なのである…(攻略)」と述べられており、やはり近代的な人間、それに対する支配的価値観からずれることが必要になってきます。<(普遍的・主体的な)人間になる>から<他者になる>という表現も人間中心主義からの脱却として捉えられます。

かなりの脱線になりましたが、この投稿の主題に照らすと、親密性の実践の対象となる人間は自分を中心とした思考の中に存在する他者ではなく、2つの主体及びその関係性に成り立つものである、そしてその対象は近代的な人間から離脱することの示唆が得られます。

ジェンダ―平等な恋愛に向けて

現代思想2021年9月号の引用になりますが、こちらは大澤真幸による恋愛におけるジェンダー作用に対する著者高橋幸の批判という形をとって表題について考える形式をとっています。

根本的な問題として、恋愛において規範的な男らしさ、女らしさに基づいた性別役割が存在し、例えば「男性は女性をリードすべきである」といったような具合の規範が批判の対象となります。これによってヘテロセクシズムは勿論、SOGIの抑圧にもつながっています。大澤は恋愛感情の説明できなさを、他者(すなわち女性という存在)の属性に由来するものと考え、対して高橋は恋愛感情を個人がその内面に持つ内的非合理性に由来するものとして捉えています。そして、自己の内的非合理性のメカニズムに関するジェンダーの観点からの分析と記述を積み重ねていくことがジェンダー平等な恋愛を可能にしていくための有効策であると示しています。

ここでは慣習的な男らしさ、女らしさの規範に対して…ということで、本文でも指摘されていましたが、恋愛感情を特定のジェンダーに依存した語り口で表現することについては、一定数の人において妥当性があるように見えるものの、恋愛一般として語るには厳しいように思えます(実態はともかく、昔のバイナリーの規範に則った議論としては一考の余地があった上で批判されうる内容だと思いますが)。

これに関しては個人的な感想ですが、恋愛感情に対する説明のつかなさについて特定のジェンダーと結びつけることについて、正直なところ自分の感覚としても否定しきれないことがあります。それ故に、コントロール不可能な恋愛感情への依存が大きい関係は難しいと感じます。その点で、メカニズムを分析し、コントロール可能な対象の切り出しや不可能な対象の受容の仕方を考えることには、計測と制御の観点から、本書で述べられているようなジェンダー平等な恋愛を可能にするために限らず、恋愛それ自体を長期的に持続させるための効果があると考えます。

クワロマンティック宣言

こちらも現代思想2021年9月号から。クワロマンティックについては、かなりラディカルな側面を持っていたことを指摘しつつ、自らにとって重要な他者の関係性を語ることの難しさを述べています。クワロマンティックは何を意味するフランス語"quoi"を用いて、「恋愛の指向を適用することはここでは意味をなさない」を意味すると、2014年にCorが述べています。比較的穏やかな意味としては、「友情か恋愛感情かの違いが見分けられない」といった用法もありますが、こういった背景から幅の広い言葉であることを理解する必要はあります。

ここで、著者の中村が紹介しているのがアンソニー・ギデンズの「純粋な関係性」です。ギデンズによると、対等な人間どうしによる人格的きずなの交流としての「純粋な関係性」とは「社会関係を結ぶというそれだけの目的のために、つまり、互いに相手との結びつきを保つことから得られるものの為に社会関係を結び、さらに互いに相手との結びつきを続けたいと思う十分な満足感を互いの関係が生み出しているとみなす限りにおいて関係を続けていく、そうした状況」としています。もう少し細くすると、血縁、社会的責務や伝統的義務などの基準につなぎとめられることのない関係です。

更に、こういった定義が先のわたしのなかのItにおける精神分析的な会話による関係性と関連する部分があります。ギデンズは性愛を否定するわけではなさそうなので概形としては包含的な概念だと思いますが、この基準が親密な関係性の構築にあたって別々の筋道を辿って語られていることに注目しています。また、この関係性の持続のために重要な概念としてコミットメント(自己投入)があり、今日において関係性はその持続が当然視できる状態ではなく、長続きさせるためには相互のコミットメントが必要であることも指摘されています。

所感

親密性について考える中で、現代思想の力を借りつつ、意識的に実践を進めていくことがよりより関係性にとって重要だと感じました。任意の物事は感覚だけでやってうまくいくものではなくきちんと対象を分析し、それに対して明確化されたアクションを取るサイクルによって改善されていくという前提のもと、妥当性があると考えます。

更に、人間関係としてみた時に、相手に対するコミットメントは一方向の祈りのようなものですが、基本的にはその関係性について両者での合意を得ることが必要になります。その上で、親密であるか否かに限らず、ここで想定される関係性は推しのような(集団ー個人ではなく)個人間での関係を想定すると、相互作用によって成り立つものだと考えられます。そうした中で図式を考えると、自分を中心として相手に向かう祈りではなく、自分、相手及びその関係の三つの項を想定し、相互作用が含まれる関係項の定義に関する会話を進めることによって、その関係自体をコントロールすることによって、親密性の土台となるシステムとして機能するのではないでしょうか。

ここで具体的な関係としては精神分析的などういった会話が可能であるか、性愛を含みうるか等展開の余地が残されています。というのも、現実を見てみると確かに恋愛は実践されていて、いくらか可能であることが机の上での議論とは別に示されているからであり、それらは理論的に理想的なものではなく、二者の関係によって成り立っているからです。どれほど議論しようとも、全体ではなく個別論に収束する為、一旦は詳細に立ち入らないところで議論を止めようと思います。逆に、この関係性のコントロールに関する前提を置くことを許容される関係であることが、二者間で求められることが唯一の要請になる、と考えています。