人間のあるべき姿の探索

思索・人形・エンジニアリング

観測者が想像する主体の存在しない意識

強さとは何でしょうか。グラップラー刃牙では強さとは、という命題について様々な議論がされていますが、強さの最小単位は我が儘を通す力とされています。グラップラー刃牙に限らず、闘争の中に見られる一般的な強さはその相手に抗うことによって発生する概念のように見えます。

それに対して、抗わないことで示される強さは存在するのか?という問いを立て、それらを例示していきます。あまり形式だった流れを取らず思うままにアイディアを述べていきますが、一貫して、抗わないことに加えて強さを観測する主体に焦点を当てることで形作られる概念になるのではないかと考えています。

まずは海の生き物の話をします。魚や貝類などたくさんの生き物が海で暮らしていて、それらの一部は知的能力が発達しており、人間から見ても十分論理的思考を持っているのではないか?と思ってしまうものもいます。そして、それらは水族館で見ることができるのですが、率直な感想として、力強さよりも苦しみを感じます。狭い水槽に閉じ込められている点はありますが、捕食者に抗い、川や海の流れに抗い、力強く生きるにも困難が立ちはだかる様子が脳裏に浮かびます。そして、それらに勝ち残った先に生殖がありますが、それを終えてその個体としての役目も終える姿にはどこかもの悲しさを感じます。生命は終わるからこそその生は美しく全うする価値があることは否定しませんが、それでも知性や抗う強さが大きければ大きいほど、いつかは衰え儚く終わってしまう現実があります。

一方で、海月には思考の座が存在しません。海月にはずっと見ていられる魅力がありますが、そこには苦しみを感じさせる様子はありません。当然困難は存在するのですが、それを意にも介せず、諦めています。しかし、海月それ自体は諦めている自覚すらなく、観測者である人間によってそういった意図を勝手に感じ取ることによって勝手に魅力を感じています。この、「知性の有無に限らず困難に対して抗おうとしない姿勢」は、困難の側からすると脅威にもなりうるし都合の良い存在にもなりうるのですが、少なくとも実践する主体とって困難が脅威にはなりえません。観測者からすると、ただ食われていく主体を弱いと判断することもできるのですが、その実「観測者が想像する主体の存在しない意識」としては特に問題はないのではないでしょうか。強くなる為に抗おうとしない、という姿勢を持つことがある主体にとって良いのでは、という話です。

次に、石の話をします。石の魅力は語り尽くせないものですが、その一つに動かないことがあるように感じます。ロジェ・カイヨワの『石が書く』でもその偶然の断面に意図を感じることについて書かれていましたが、その意図を感じる肉体に対して、当の主体については何も語ることも考えることもしませんし、そういった観測者との非対称性が良いと感じます。それでいて、多くの石は硬く、モース硬度1とか2であれば人間でも簡単に削れますが、硬度が高いものであればそうそう割れない安心感があります。しかし、それは別に抗っているわけではありませんし、むしろその(存在しない)石の姿勢を見習っていくと良いのではないかと思います。

最後に、死人の話をします。死人は口がないので称賛することも罵倒することも自由ですし、第三者はしばしば死者が冒涜される姿を見るとそれを守ろうとします。ただ、当人にとっては口がない以上に意識がないので別に問題がないんですよね(生きている観測者たちの倫理については別問題ですが)。そういった点で、死人には観測者が想像する主体の存在しない意識としての強さがあります。

少しうみねこのなく頃にの話をします。概要を紹介すると、絶海の孤島に親族会議で集まったとある一族とその召使達が魔女によって殺されてしまう、というストーリーを繰り返す中で、一つメタ的な視点での物語が並行で進み、ストーリー内にも登場する主人公及び魔女が互いにその事件が人間によって可能であることの説明によって魔女を否定するか、人間によって不可能であることの説明によって魔女を肯定するか、といった論争を繰り広げる形の展開になります。ここで、ベースのストーリーをチェス盤に見立ててメタ世界でチェスのように論争を繰り広げるのですが、更にそのチェス自体がボトルメールであることが示唆されます。ここから解釈の分かれるとこですが、島の外には偶々体調不良で親族会議に参加できなかった主人公の妹がそのボトルメールを読むことになります。ボトルメール以外にも、その奇怪な魔女殺人を面白がったオカルト狂が偽書を作成するのですが、その中で亡くなった主人公が書いたのではないかと思われる偽書が現れ、主人公の妹はそれも読むことになります。

そして、各ストーリーではファンタジーの側面を持った魔女による殺人とその否定が描かれるのですが、最終章の一つ手前では、険悪な関係にあった一族による殺人の説が主張され、最終章では逆に殺人なんか存在せず一族は親密であったことを主人公が主張するストーリーが対比的に紹介されます。そして、これらのストーリーはあくまで偽書なのですが、シュレディンガーの猫をモチーフとして、前者は猫箱の不都合な真実を暴く、後者は真実を猫箱の中に閉じ込めると表現されます。

話を戻して、死人には口がありませんが、本は過去の人々との対話なので死人の文章を通じてその人と一方的な対話を行うことはできます。しかし、そこでどのような意見を観測者が持とうとも、死人は感知しないところで、それに対して抗う必要もありません。結局真実を本当に暴くことはできない点において、死んでしまった時点でその人の意識としては全てが完結し守られることになります。

派生して、存在しない人間及び任意の非存在については、その特徴を規定することも難しいですが、それに対する困難が存在すること自体難しいです。その存在を暫定的に非存在としますが、恋人が非存在だと意識が存在しないのでそれに対する批判は観測者が想像する主体の存在しない意識にとっては気に留める必要もないので、非存在を恋人にするとかなり都合がよく、全てがうまく回ります。

余談ですが、自分自身が人形になる、憑依することに対する意味づけをずっと考えています。語り口をいくつか用意して、文学的な表現であったり、工学としての意義であったり、色々あると思うのですが、ある種啓蒙的な救いについて考えた時、人形は意識のない主体で自分がそれに憑依することで、自分というのが常に意識のある主体であり続けなければいけないのではなく、意識のない主体に憑依すると半分自分ではなく、例えば批判されることがあってもそれは分離可能な人格の一部である認識を持つことで少し楽になれるのでは、といったことを考えていました。恋人を意識のない主体にすることもよいですが、自らを意識のない主体を用いて拡張すると抗わない強さに向かっていけるのではないでしょうか。