人間のあるべき姿の探索

思索・人形・エンジニアリング

ハーバート・リード『彫刻とは何か』を読みました。

はじめに

 ハーバート・リード『彫刻とは何か ー特質と限界ー』を読みました。とは言っても、それなりの前提知識を必要とするものでもあり、彫刻に関する知識のない人間にとってはまずは雰囲気を掴むところから始めなければいけなかった為、概形を掴む程度の速読をしました。それ故、言葉遣いもその界隈の言葉になるにはだいぶ時間がかかりそうだと感じました。

 発端としては、先日立正大学の学園祭で行われていた仏教学部の展示に感銘を受けた出来事があります。展示では、卒業制作として仏像の模刻行い、模刻を通してその対象に感じた魅力を見出す過程とその結果がパネルと共に並べられていました。今まで宗教的な意味合いでしか捉えたことのなかった仏像に対して、彫刻のような形として扱ってよいという認識の転換は個人的には大きなものでした。しかし、そこで使用される言葉の語法が一般的ではないので伺ったところ、独自に定義を与えてやる必要のある言葉が多いことを聞いたと同時に、マッスやヴォリュウムといった語は彫刻で使用される言葉であることを理解しました。更に、『彫刻とは何か ー特質と限界ー』という書籍がテキストとして使用されていることを聞いたので、まずは入り口として読んでみることにした、といった次第です入口として適切ではない気もしますが。ちなみに絶版だったので中古で4,500円で購入しました。

 同時に、創作人形においても彫刻的な価値観が寄与しうる部分があるのではないか?と思いました。特に日本における創作人形は歴史的な流れしてまとまった背景を持つよりは作家さん個々人の感性による部分が大きく、それぞれの背景により大きく異なるように見えます。以前渋谷でボーダーレス・ドールズという、日本におけるドールを広く幅をとった定義で捉えた展示がありました。そこでは、昔をさかのぼれば這子、天児といった呪術的なものから始まり、子供のおもちゃから置物、造形的な美へと進んでいく過程の種々のドールが展示されていました。特に現代のドールとしてはフィギュアや創作系のドール、オリエント工業ラブドールや、四谷シモン先生の作品も展示されており、未来に向かってより幅広いドールが生まれることを示唆していました。そんなこんなで思い返してみると、現代は過去の芸術やそれ以外の観念を下地とした創作をすることが可能となっており、伝統的な芸術の下地を持つ人もいれば、そうでない人もいると気づきました。そこで、バックグラウンドとしては工学系で美術にも詳しくないので、少しくらいは彫刻を知っておこうと思った次第です。

まずはあとがきから

 本書の立ち位置は、訳者のあとがきに詳しいので簡単に見ていきます。

この書は彫刻の芸術の特質と限界をまず歴史的、発生論的な見地から、ついで心理学的、美的観点から検証しようとしたもので、平たくいえば彫刻というものが他の隣接の芸術、絵画や建築と原理的にどういう点で違うか、またこの芸術は本来どうあるべきであるかを、まず観念の上で明確にしようとしたものである。彫刻はつねに建築と深くかかわりあいながら発達してきたが、そのために彫刻は建築の装飾ないし応用芸術に陥入る傾向があった。他方その原理はしばしば視覚原理と混同され、本性を見失うことが多かった。リードによると、彫刻はロダンによってはじめてその自立性に立ち戻り、その特質を自覚するにいたった。以後の今世紀の彫刻の目覚ましい発展と開花はこの自覚による自己の確立、いわば彫刻による彫刻の解放の減少と見ることができよう。

と、真っ向から彫刻とは何かを論じています。参照する彫刻の資料写真も220を超え、それぞれを参照する形で議論が進んでいきます。その様は、ボーダーレス・ドールズで時代を追っていきながら広くドールの概念を俯瞰していたのと似たものを感じました。

各章を読む

 とはいっても、中々スッと理解できない部分も多く、自分の視点での語り口で完結にまとめる形になります。また、やはり科学と同じく直観が重要であり、資料写真を見た際にそこにつけられた説明に納得がいかないことも多く、これは彫刻のコンテキストに身を置いて直観をアップデートする必要があると感じました。勉強ってそういうところがあるのでしんどいですね…

記念物と護符

 彫刻の起源となるふたつの源流が記念物(モニュメント)と護符(アミュレット)であり、その時代からの説明がされています。あとがきにあるように、彫刻は元々建築の一部として位置づけられており、こちらは記念物とされており、護符は全く別のものとされています。日本人としては人形に呪いを委ねて川に流したりしていたので意外と身近なものかもしれません。

人体のイメージ

彫刻においてはほとんどが人体像を主題とし、人間が三次元性の自覚に達するには身体イメージの確立が基礎になるという心理的な分析から所論を進めています。盲目の少年が作った彫刻が明らかに手を強調し、脚や足が目立たないような作りになっている例が出ており、なんとなくペンフィールドホムンクルスを思い出させます。二次元にリアルを投影する絵画の方が三次元のまま作る彫刻より難しいのでは?という主張を上記の論点で反駁しているのですが、確かに立体を作ろうとすると単に模倣するだけでも観察を要するものであり、非常に難しいですし、イメージを三次元空間上に具体化しようと思うとそのイメージが表面に点を置いたボクセル構造ではなく中身の詰まった厚みによって構成されていることを意識しなければ歪んでしまうと感じます。また、エジプトの神々の彫刻などはかなり形式的で象徴的なオブジェクトやポーズに注目しており写実を主目的としない旨が書かれており、そういった対比があることも一つの発見でした。

空間の発見

ここでは、建築から離れ彫刻が独立する話がされていました。というのが、建築は具体的な「場所」に置かれるものであるのに対して、建築から独立して存在することとなった彫刻は場所を選ばず、どこかの三次元的な「空間」を占める物体となります。それは美術館に置かれることもありますし、外に置かれることもある、ある意味ではコンテキストから解放される存在となります。また、彫刻が触覚芸術であることにも触れられています。それによって視覚芸術である絵画との対比についても論じています。

マッスの実現

マッスは全体の中で一つのまとまりとして把握される部分のことになります。ここでも絵画と対比されることで、触覚芸術に優先を置く造形芸術として輝くことによって絵画とは一線を画すことが論じられています。マッス、ヴォリュウムといった語が使用されますが、表面的な面の質感ではなく量感に重要性を見出す点はとても大きな発見でした。200p前後でロダンが葉飾りのついた柱頭を作る際に言われた「今後は彫るさいに形を長さで見ずにいつも厚みで見たまえ。表面を見るときには必ずヴォリュウムの先端として、君に向かってすすんでくる多少広さのある点としてみたまえ。そのようにすれば、君は肉付けの術を習得できるだろう。」というセリフに代表されるように、彫刻がこのように捉えられることで造形のイメージがわくように感じます。僕も昔顔の立体感が上手く出ないときに顔をパーツごとに捉えているといわれたことがあるのですが、確かに正面から見たのっぺらぼうに目鼻口を描いている感覚を持っていました。しかし、前提として顔の立体感は頭蓋骨、筋肉、脂肪、皮からなるものであり、それらが構成する三次元的空間の表面として目鼻口があるのであり、さらに言えばパーツとして見づらい頬や名前のマイナーな部位、表面もそういったヴォリュウムの突出部であることは確かに今では納得できます。いわれた当時、言い訳をしてしまったこともありかなり心に影を落としている記憶ではありますが、そういう部分に向き合って自分を乗り越える困難に立ち向かっていく必要がありますね。

運動の錯覚

正直ここからはイメージが難しい内容でした。ここでは、彫刻という慣習的には動かない対象に動きを持たせることについて論じられています。典型的には、サモトラケのニケの羽衣の襞や羽の躍動する流れ、あるポーズから次のポーズへ向かう中途のポーズと呼べるか怪しい状態の表現、肌理による表現など様々な表現があることが示されています。人形について思い浮かべてみると、昔のポーズ人形はかなり大げさな表情を浮かべることも多かったように思いますが、現代の創作人形ではベルメール以降ポーズを自由に決められる球体関節人形が流行していることもあり、強めの表情はつけないように感じます。筋肉も特定のポーズに最適化されるというよりは静的な状態で標本的な形をすることが多いように感じます。むしろ剥製標本の方が表情豊かなこともあります。そんな中で観察していると、微笑みかけで笑顔につながる直前のあいまいな表情をしているものがあります。確か金森修『人形論』に記述があったような気がするのですが、何分人形に詳しくなかった五年ほど前に読んで以来なので、思い出す必要がありそうです。これも、動かない存在が時間と空間を表現するにあたっての技巧かと思います。

光の衝突

光が彫刻に与える影響について語られています。絵画との対比として、以下の様に語られています。

三次元的形体をカンヴァスの二次元的表面にあらわそうとする場合、気まぐれな光のこの会費が画家にとってもっとも重要なことであるとするなら、直接感覚的な魅力を持つ三次元の形体を想像せんとする彫刻家にとって、それがなおさら重要なことであるのはいうまでもない。

セザンヌも「光は画家にとっては存在しない」と言ったらしいです。と、彫刻は場所から離れ空間を占めることになったので光の影響も想定しなければならないわけですが、それによってマッスの質感が損なわれる場合や、逆に光を利用した例などが紹介されています。光の話だと、明暗法のようなものは人形の肌のメイクでも、実際自分の顔のメイクでもやったことがあり、影になるべき部分や影としたい部分を暗めに色を落としていくことはあり、そういった表面の効果を意識することが彫刻において必要であるのは納得感がありました。

おわりに

彫刻の基本的な言葉も知らない状態で読んだので、上記の様に自らのつたない知識をもとに情報をつたって読んでいくのが精いっぱいではありましたが、三次元の造形をやる身としては示唆に富む内容でありました。どうしても独学では効率的に造形を観察し、自らの造形を鍛えるにも苦労することを課題として感じていました。そこには直観を育むことが必要ではありますが、こういった言語化された知をきちんと摂取して、それを自ら再現する中で暗黙知を育み、言語化するサイクルを回していく試みが必要だと改めて感じました。手も動かす、勉強もする、両方やらなきゃいけないのが造形の辛いところだな…ってコト!?