人間のあるべき姿の探索

思索・人形・エンジニアリング

創作に何ができるのか

 副題を「ク ソ デ カ 希 死 念 慮」としておきます。

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 今年を振り返りながら、丁度一年前の話の焼きなましをしていきます。

鴻之舞鉱山に行った

 今年の9月に北海道の東の方をドライブしてきました。私は自動車免許を盛っていないので、運転手の運転をほめる係をしていました。2泊3日の旅程ですが1,3日目は昼の便で移動したため、実質48時間での旅行となり、野付半島知床半島、網走を高速移動する旅となりました。

 本題に移ると、北海道は紋別鴻之舞鉱山という場所があります。…もとい、鉱山がありました。網走から紋別の空港に向かってサロマ湖を横目に海沿いを走り、その終わりの辺りで南下したところにその一帯はあります。鴻之舞周辺の元山付近で1915年に鉱床が発見され、鉱区設定をめぐる紛争が起き、その後1973年にいたるまで鉱山としての操業を続けたらしいです。鴻之舞鉱山は発展し、最盛期の1942年、丁度太平洋戦争の少し前辺りには14640人ほどの人工となり、鉱山労働者やその家族が住んでいたとのことで、その発展の具合がわかります。しかしその後戦争の激化により、鴻之舞鉱山で主に取れていた金が不要不急となり、労働者の多くが他の事業所に配置替えとなったり徴兵され、第二次世界大戦後には金価格も下落して至言も枯渇、1973年に鴻之舞銅山は閉山しました。現在は沈殿池のみ稼働しています。

 沈殿池とは何か?ついでに、旅行の中で見つけたサイロやシックナーについても後で調べました。サイロ化という言葉は聞いたことがありましたが、工業原料や農産物などの集配と貯蔵の為のバラ積み方式の容器を用いた倉庫と知ったのは後のことです。最近だと効率や安全性の面から塔の形をしたサイロではなく、飼料を樽上にまとめて袋に詰めるようで、確かに牧場でそういった形状の何かを見たことがあったので、納得感がありました。

 そして、廃鉱山跡として当時の施設をいくつか見た後に、上藻別駅逓所に行きました。別名鴻之舞金山資料館のこの場所は、当時駅逓として使用されていた建物を資料館に転用し、当時使用されていた道具や算出された鉱石が大量にありました。長く滞在できなかったことが悔やまれるのですが、当時のことを知る方がいらっしゃったり、資料的価値の大きい場所でした。個人的には大量の石に興奮したのですが、当時の生活が見える貴重な資料館です。

www.ok21.or.jp

 と、鴻之舞の話をしてきたのですが、旅行当時はこれらの情報を全く知らずに帰ってきました。飛行機の時間の都合で急いで上藻別駅逓所を離れ、飛行機に乗り、疲労からぐっすり眠り…といった形で帰路につき、旅行全体を思い出として偶に思い返す何かとして記憶の片隅に置いておくことにしました。

 それから一か月程経ったある日、急に鴻之舞鉱山のことが気になり、YouTubeGoogleで調べ、キャプション付きの写真をいくつか見ました。そうしたら、上述の情報を主とした鉱山周辺での生活やその文化の栄華を想起し、どうしようもない気持ちになりました。こういう気持ちになると、仕事を辞めたくなります。今まで廃墟を今現在の情景として捉えている節があり、その歴史を感じ取る程の手がかりを掴む知識がありませんでした。しかし、個人宅や旅館ではないレベルの街という大きな世界があったことを確かに感じたことで、感じるところがあったのだと思います。

 大自然を見たとき人は悩みがちっぽけに感じるといいますが、直近の悩みを近視眼的に気にする人であればともかく、大局的に人生の喜びや苦しみを捉えようとする人にとっては、その両方を矮小化する存在になります。私はいわゆる絶景を見たことが少なく、いくつか見て回ったところは確かに自分の目に映る程度には壮大であるものの、彩度を上げる加工技術が眼球に備わっていないため、少々落ち着いたものに見えました。それに比べて、想像を掻き立てられる文化の栄華は、一般の人々にとっての大自然と同様に感じられました。これを希死念慮と呼びます。

 知床半島野付半島の景色も素晴らしいものでした。壮大な崖、大きな岩を見ると人は喜ぶので、当然私も喜びました。野付半島のトドワラは年々朽ちており、あと数年で朽ち果ててしまうとのことで、当日の天気も相まって彼岸との境目の様相を呈していました。野付半島は植物のゼンマイの様に先へ向かうにつれて細く枝を伸ばしながら丸まっていくような地形で、その半分ほどまで足を伸ばすことができます。ガタガタとトラクターに揺られて両側が海に、木々に囲まれる様子は丁度ゲゲゲの鬼太郎の片道切符で地獄に落ちていくようでしたが、今回は往復切符なので生きて帰ってきました。

  木々が好きです。

人形の話

 この一年は一つのプロジェクトをひたすら遂行しており、MVP(Mean Viable Product)をリリースするところまで何とかこぎつけました。これから塗装や展示をできるような準備を進める必要がありますが、一年間でノウハウを大量にため込みながら設計を形にしていきました。

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 思い返すと、今年は人形展にあまり行きませんでした。2018年2月、熱海のミワドールさんに行ってからというものの、人形に詳しくなくてもとりあえずいろんな展示を見に行きました。大きめの公募展に行くことが多く、次第に作家さんの個展なども見に行くようになりました。2021年は当時おつきあいしていた方が人形を好きだったこともあり一緒に行きましたし、2022年は新卒で採用された直後だったので、人形制作と労働の両輪で回していくためのエネルギーをもらうためにいろんな展示を見て、種々の人形や作家さんから元気をもらっていました。新人研修で日々忙しく、8時過ぎにカフェで一人で設計をしていた折に、ふと「土日で京都に行ける…」と思い、金曜日の夜に油絵具の塗装をやり、土曜日の昼に家を飛び出て新幹線に乗って木村龍先生の個展を見に行ったのは今でも覚えています。

 なぜいかなかったのかと考えると、やはり自分のやるべきことが多かったのだと思います。平日は時々休みも入れていましたが、毎日1~3時間程度は設計作業や粘土を触る作業をしていましたし、土日は平日分の気分転換をまとめる都合もあり、3~6時間程度作業をしていました。これが東京まででかけて展示や食事を梯子すると何もできなくなってしまう為、家にこもりきりになっていました。上記のProject Beyond Eveの記事一覧の中に記載しているのですが、粘土作業からプログラミングまで、多種多様な作業があり一人ですべてをやっていたので常に脳内の一次キャッシュにすべてを詰め込んでいる状況でした。気を抜くと、一か月友人に会わなかったみたいなこともあり、結構限界でした。

 一年ほど前に、最初に掲載したブログの内容を考えていて、当時は作り手になることを受け手としての創作に対する飽きに抵抗する妥協案と書きました。問題意識からくる回答案としての創作ではありましたが、今でも答えを出せず、同じ気持ちです。そして、創作に何ができるか改めて考えた時に、結局は作る為の構想と過程と結果がそれぞれ得られるのだなと感じました。

 作りたいものの構想を練る段階は私にとってかなり苦痛だと感じています。今まで創作にきちんと触れることもなければ、解像度高く物事を捉えたこともありませんし、道端に生えている花の名前もろくに知りません。アイデアが山の様に湧き出てくる人が羨ましく、そしてそれを叶えきれない苦しみがあることも察しています。

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 私は人形を作る過程が一番好きかもしれません。人形…といってもここ一年は人形を動かす為に、まず機構を仕込んだり、端的な表現をするとロボット化し、そして人形になる為に身体的なフィードバックのループを組み込むソフト・ハード面の仕組みを組み込んだり、といったことをしていました。それらのある種システム開発的な面での試行錯誤もそうですが、粘土をこねている中で意外と収縮することや、眼球がきちんと真球であり、瞼やその周辺の皮膚組織もそれに沿う形になっていることや、テクスチュアはその内臓・骨・脂肪などからなるボリュームの突出部であることを実感するその過程に喜びを覚えますし、その度に自分の未熟さに失望したり、焦ったりします。そして、完成に向けて何かを諦め、そして完成後にその諦めた部分を見返す度に悲しい気持ちになります。

 結果として出来上がる人形にあまり感情移入したことがありません。以前、かなり感覚的に存在するイメージを現実に産まれさせてあげるような試みとして人形制作をされている方の話を伺いましたが、私はかなり対極というか、コンセプチュアルに対象を構成したい気持ちでやっています。ディテールの美しさの好みはあるものの、作りたい概念を言語化するのが楽しいのだと思います。極論、そのコンセプトをやってくれる人がいれば、自分は新規性を気にせず粘土を捏ねていられますし、自分が作ったという経験を得ることと新規性を自ら切り開くことの二つを除けば、作られた結果に何かを感じることは少ないのかもしれません。

クソデカ希死念慮

 何をして生きていくか、と常に問うているのですが、人生の暇つぶしとして何かを作り続けなければ生きていけないように感じます。百年戦争中のヨーロッパを舞台に、魔女たちが戦争をする男たちを誑かす中で、主人公の魔女マリアだけは正面から戦争を止めるために怪物を呼び出して戦場を荒らします。神々はそれを疎ましく思い、いずれマリアの活動を邪魔するようになります。マリアは神に戦争や戦地における凌辱を見過ごすのかと問い、逆に神はマリアが自分に見える範囲だけを救ってそれ以外を見ないふりをするのかと諫めるシーンがあります。戦地にて凌辱の限りを尽くそうとする傭兵達の目を潰したら危機を回避した村民達が傭兵を殺害しようとし、それをマリアが止めると姿が印象的です。未だにこのやり取りの解釈の落としどころを見つけていないのですが、神に見守られている主体こと人間の自分は目に見えるものを良くしていく、自分の欲に従い、その欲が衝突することもあるくらいに解釈を落ち着けました。

 大きなものにであってしまった衝撃という外圧及び今まで生きてきた中での世界に対する苦しみこと内圧の双方から、自らの矮小な人生に対するどうしようもなさが生じています。これと付き合っていくには、自らが何かを作り続けることしかできないのではないかと思いました。仕事も、より価値を生み納得できるようなことをしたいと思うようになりました、技術や作業に対する個人的な喜びと、世の中に価値を生んでせめて自分が見える範囲だけでも良くしていきたいですね。仕事は常に現職とそれ以外の綱引きだと思っているので、私の技術スタックや性格からして面白そうな仕事があれば是非相談させてください。

 それとは別に、もっと世の中を見たいです。その度にどうしようもない気持になるとは思うのですが、世界遺産になっている絶景であったり、街の文化であったり、人が産み出した概念・モノ全般についてより深く知りたいと思うようになりました。海外に行ったことがあまりないので、若いうちに、体の動くうちにもっといろんなものを見ようと思います。旅行のお誘いは待っています。

活版印刷機を作る

 先日活版印刷の体験をしてきました。自分で文字を拾い、ノートの表紙にイラストと選んだ文字を印刷できます。14文字まで選択できた為、結構悩みました。

campanella-letterpress.jp

 球体関節人形の球の美しさを求めるのだから俺たちは球・美・思想であろうと言っていたの、丁度一年前のことでした。希求の求と球体の球をかけて、そして反復的に無生物を生み出す死の欲動にかけて、その意を印刷しました。稀に活版印刷で見かける文字が90°傾いた誤字も再現できたため、球体を表すキュウを回転させました。

 球体に絡めた話で、先日木村龍先生と少しだけお話させていただく機会がありました。僕の人形を動かす試みについて話をさせていただいたり、人形の作り方を伺ったり、貴重な機会を得られたのですが、その中で球体関節の話をしました。ベルメール以降球体関節が流行っているようですが、実際どこからどこまでを球体とするか、そしてなぜその形にするか、といった話をしました。機構的にはなぜ?と考えると可動域の利便性が一つの回答になるのですが、それがリアルな人体の形とのトレードオフになる為、結構考えていたのですが、人体の仕組みと意味の両面に照らしてみると検討する余地はあるなと改めて思いました。機構についてメモ書きをみせて説明しつつ、逆にメモを頂いたりしました。ご迷惑をおかけしました…

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 話は一旦飛んで、今年は生成AI(と便宜上呼びます)がとても流行りました。私自身、ChatGPTには興味があったので結構遊んでいましたし、画像生成についてもコミティアに出した小説の表紙を生成したりと、結構活用していた気がします。今年は技術系・その他共に結構ブログを書いていた気がします。アドベントカレンダーで12月に25記事書いたのを除いても30程度の記事を書いていたようです。

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 生成AI、特に言語生成については大学院時代に近い分野の研究室にいたので興味がありました。研究室の動機も言語モデルを扱う研究をしていたので話は聞いていましたし、逆に冬の時代の話も度々聞いていたので今の流行りに対してはキラーアプリが本当に作れるのか、一般のシステムよりも確率的な出力をするシステムの構築は難しいのではないか、等厳しい気持ちでいます。とはいえ、世の中は常に何かの過渡期ですし、そういった複雑なシステムが将来的に実現されるにあたっては通らなければいけない道だと思っているので、発展には期待しています。

 しかし、今の生成AIにできないことは何だろうと考えると、やはり身体性や動機付け、言語モデルのInput/Outputでしかないことだと考えています。モデルそれ自体に動機付けがされていない、実時間インタラクションでない等、実際の人間とはかなり異なる部分がありますし、強くバイアスがつけられたモデルによる広範なコンテクストを理由付けして閃くような、そんな思考はてんでダメというのが使ってみての感想です。うまく動機付けのアルゴリズムを作って強化学習のような枠組みと通信させても、疎結合では本質にたどり着けないのではないでしょうか。

 そういった技術のことを考えながら、人形にできることを考えていました。私は人形になる試みの中で、人形とのインタラクションができればと考えました。人形それ自体に憑依することも含め、触れる、体験を作れる、そういったものです。巷ではChatGPTをM5Stackに組み込んで会話をするロボットが作られておりとてもかわいらしいのですが、技術による解決のすばらしさを感じます。一方で、耽美等の観点を盛り込んだ全体としてのUXとしては、ただ音声認識と言語生成、音声合成を用いる体験はどうなのだろうと考えました。そこで、活版印刷機による出力の形式はどうか、と考えています。神が信託を与えるように、被造物たる人形が体に組み込まれた活版印刷機を用いて返答を紙で返す、そういった体験ができたら面白いと考えているので、来年あたり実現出来たらよいと思います。しかし、活版印刷機は複雑な仕組みを持ち、それを作ることは難しいのではないでしょうか。

 作りました。

youtu.be

 仕組みを理解する過程や機構を干渉させない微調整等に楽しさがありました。そして、世界を理解したい気持ちを満足させてくれたような気分になります。その類の欲を満たすには、個人的には以下の本がおすすめです。以前どこかで見かけて以来気になっていたのですが手元に置けていないので、誰か贈ってくれると嬉しいです。

www.iwanami.co.jp

今年の振り返り

 TR;DR:人形を作り、人形になりました、以上。

 浅草ロック座に行き、美しい肉体、特に筋肉の躍動をみました。人形やトルソーを2体ほど作り、それ以外は長いプロジェクトを推進していました。寿司を大量に食べました。人生で初めてコミティアに出て本を作りました。偶に友人に会う機会がありました。仕事と称してパソコンをカタカタし続けました。

 今年も静かな一年でした。来年は今以上に色んなものに触れ、そして作り、騒がしくしていきたいですね。

終わりに

遺書としての完成度が高まってきたので、ここいらで終わりにして、来年も少しずつ寿命・コンテンツ・その他を消費しつつそれらを糧にちょっとしたものを作って寿命が尽きるまでの暇つぶしをしていきましょう。