所用で上野に行ってきたのですが、丁度50年ぶりのキュビスム展をやっていたので、入りました。
キュビスムのことは全然知らないのですが、以前から気になっていました。
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身体が球体であることは美しいので、球の美の思想として、「キュウビズム」とでも呼びましょう
丁度一年後、活版印刷体験でも同じことを言っていました。
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球体関節人形の球の美しさを求めるのだから俺たちは球・美・思想であろうと言っていたの、丁度一年前のことでした。希求の求と球体の球をかけて、そして反復的に無生物を生み出す死の欲動にかけて、その意を印刷しました。稀に活版印刷で見かける文字が90°傾いた誤字も再現できたため、球体を表すキュウを回転させました。
西洋美術への知識・理解がない
思い返してみると、西洋美術にきちんと向き合う機会がなく、小さいころに美術館には偶に連れていかれたものの、あまり自分の中で感想が生まれなかった気がします。高校生の頃は一年時に美術と音楽でクラスが分かれ、音楽クラスを選択してリコーダーをピーピー吹いていた為、美術について技術・知識共に学ぶ機会がありませんでした。理系を選択しつつ高校二年生まで世界史をやって一応定期テストを暗記で88点くらい取った記憶がありますが、その後すべての横文字を忘れてしまった経験を思い返すと、多分横文字の名前だけ見てその背景にある意味やつながりを理解しないとすぐに忘れてしまうのだと思います。あまり美術や知を重んじる精神もなかったので、作品を見てきちんと長期記憶に残るような消化をできていなかったのだと思います。そういう人生を長らくやってきたな…と、いい年になってから人生を見つめ直しています。
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大学院生になってから人形を作り始めて、自分なりに作品やそれ以外の対象を捉えて消化する方法を見出したのですが、知識の面では、印象派とは?など未だによく関係を理解できておらず、といった感じです。キュビスムについても、写実ではなく幾何学図形を用いた表現によって新たな地平を見出そうとする試みで、結構反発もあったくらいの理解でした。
キュビスム展の感想
展示概要を引用します。
20世紀初頭、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックという2人の芸術家によって生み出されたキュビスムは、西洋美術の歴史にかつてないほど大きな変革をもたらしました。その名称は、1908年にブラックの風景画が「キューブ(立方体)」と評されたことに由来します。伝統的な遠近法や陰影法による空間表現から脱却し、幾何学的な形によって画面を構成する試みは、絵画を現実の再現とみなすルネサンス以来の常識から画家たちを解放しました。キュビスムが開いた視覚表現の新たな可能性は、パリに集う若い芸術家たちに衝撃を与え、瞬く間に世界中に広まり、それ以後の芸術の多様な展開に決定的な影響を及ぼしています。
この度、パリのポンピドゥーセンターからキュビスムの重要作品が多数来日し、そのうち50点以上が日本初出品です。主要作家約40人による絵画や彫刻を中心とした約140点を通して、20世紀美術の真の出発点となったキュビスムの豊かな展開とダイナミズムを紹介します。日本でキュビスムを正面から取り上げる展覧会はおよそ50年ぶりです。
最初の感想としては、キュビスムとして表現されるものにも歴史があり、その始まりから新しい主義へと発展していく中に様々な作家による試行錯誤が見られたのだと知れたことが嬉しかったです。結構グラデーションがあって、風景、例えば道や家をそのディテールを精密に表現するのではなく、図形に落とし込むといったものもあれば、ある程度時期の進んだもので解体して図形に落とし込むというよりは図形の中に表現したい対象が微かに浮かび上がるような作品もありました。前者はジョルジュ・ブラック『レスタックの高架橋』、後者はフランティシェク・クプカの『色彩の構成』等から感じました。
正直理解の及ばない作品もありました。音声ガイドをつけずに作品を見てしまったこともあり、解釈を自分の身に委ねていた部分が大きいので、もう少し作者の意図やガイドのような見解に根を張って眺めても良かったなと思います。
人形との関連
そして、特に言及はありませんが、ハンス・ベルメールの球体関節人形を思い出しました。ベルメールのことは学ばないといけないと思いつつ、本も読まず手を動かすばかりなのですが、球体による身体の表現はキュビスムのような幾何学図形による写実だけでない表現の模索のように感じます。それは球体関節が可動域や自由度の要請に応えうるポーズ変更が可能な造形物としての側面もありますが、ある意味でのデフォルメが何を意味するのか、考える余地があると感じました。
丁度人形作家の先生にそういった話を伺いました。球体関節と言った時に可動部を単に真球にしてしまいがちだけど、実際にはよりリアルな造形を求めて楕円形にしたり、解剖学的な正しさを考えると、どこでその肉体を切断するか考えられるよね、とのことで、切断を考察したい感覚は微かにあったものの、そういった観点を明確に示されて納得しました。そのくだりはちょっとだけ年末にブログの途中に書きました。
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また、切断については僕は藤田さんの『人形愛の精神分析』を読んで色々考えていました。2018年に大学の図書館で手に取って、その後バーにおいてあるものを軽く読み返したりした程度ですが、人形の関節の分割は去勢のメタファーとされるという言説でした。かなりラカン派の精神分析に寄せられた内容らしいので、そちらへの理解が必要なのですが、やはり肉体をどう分割するかについては長い人生の中でよくよく考えていく必要がありそうです。
関連して、ユリイカの2021年1月号『ぬいぐるみの世界』特集の小澤京子さんのぬいぐるみの存在論と様式論では、人形とぬいぐるみの二項対立の図式をいくつか紹介しています。勿論似て非なるもので共通点もたくさんあり、例えば布を素材に詰め物をした玩具とすると布製の人形もぬいぐるみになってしまいますし、接触性や可塑性のある素材としても抱き人形が含まれてしまうといった次第です。他の評論でも示されていたリアル志向かデフォルメ志向かといったものは個人的に好きで、人形を人と間違えることはあれどぬいぐるみを人と間違えることがないのはそうだと思います。そして、人形はパーツごとの集積でできており、構造的で、ばらばらにできるが、ぬいぐるみは破れやほつれを除けばそうではない、という点が気になりました。
キュビスム展に話を戻すと、ピカソの作品も何点かあり、切子面(Facet)と表現される形態を分割する面が使われていると説明されていたのが印象的でした。そして、様々な時期の様々な作品を見る中で、やはり解剖学的な側面に基づいて図形的な分割をしているものと、そうではない平面によって分割されたり形式化されたものがあるように感じました。どうしても美術品としての創作人形を作る際にリアリティを求めることが多いのですが、幾何学図形やより単純化された記号、あるいは記号と見做すことが困難な図形に寄せられた人形にはそういった模索を見出すことができると感じました。
余談として、結構混んでいました。時間と体力の兼ね合いもあってさらっと通り過ぎてしまってあまり落ち着いて見られなかった作品もあるのですが、行列に並ぶとその間移動できず作品一つ一つに向き合わないといけない時間が生まれます。その時間の中で細部に目を向けたり、思考をめぐらせることができたのは、混んでいる展示の良さかもしれません。以前ディズニーシーに行った際は、コロナの影響で入場人数に制限がかかり、本来待ち時間に楽しむことができるアトラクションの待機列の細部のこだわりや雰囲気、待っているわくわく感を得損ねてしまったことがあり、混雑を楽しむというのは意外と重要なのかもしれません。
キュビスムを知る前の話
キュビスムを理解したか?と言われればNoですが、作品とその主義についてなんとなく概要を一緒に眺めたことで、雰囲気を知ることができました。もうちょっと理解を深めたいので、精進します。
作品を見る中で、そういえば自分はこういうことがしたかったのかもしれないなと思いました。結構昔からその気はあったかもしれないですが、幾何学図形というよりは、あいまいな線画の中に輪郭が浮かび上がってほしい、肉体が既存の形を越えてほしいという気持ちがありました。人形に触れてからは、その欲が球体による身体の分割がメインになったような気がします。同じような経験として、昨年神保町の神田古本まつりで購入した多賀新さんの『銅版画 江戸川乱歩の世界』にあった記述を思い出します。
その作品には、鳥とも魚とも獣ともつかぬ奇怪な動物が女の肢体と混ざり合い、女の差し伸べた手が濡れた下枝と化し、下半身が樹木と絡み合って根となり、地中深くけぶれるように消えてゆくさまが稠密に描かれていた。
初めて多賀新氏の銅版画に触れる者は、必ずや幼年期の懐かしい情動を想い起こすに違いない。お伽話やギリシア神話を持ち出すまでもなく、少年にとってメタモルフォーシスほどエロティックな夢想はないであろう。
思い返してみると、異形頭やメリーゴーランドと融合した身体が好きだったのは、こういうことなのではなかろうと、思った次第です。
開いた箱は戻らない
一度知識を得ると、得る前の状態に戻れません。多分、今後自分の欲を探すときに、言語によって「キュビスム的な欲を持っている」と枠組みで語ることができてしまうのが、解説には役立つにしろ欲を探索する幅を狭める恐れがあると感じました。記号で扱える範疇やその記号がどういったものか説明できてしまうことは、創発を生み出すにあたっては障壁となると考えています。勿論、知識を蓄えることでその関連性を見出すのが知性や閃きであると思うのですが、それは体系化のプロセスであって、その前にあるもっと不明瞭な状態の素直な感覚を維持する胆力が必要になったのが息苦しいと感じました。
ミステリは一度目の楽しみを一度しか味わうことができません。犯人、引いては真実を知った後に、それを推理することはできなくて、語られなかった背景の考察をするに留まってしまいます。素人が専門家を驚かせるような素晴らしいアイデアを出すことは稀なので素直に素人は黙って勉強しとれ…とは思いますし、その過程で精緻化・体系化された知識同士の繋がりが多くの分野における新しい地平を生み出すと思っていますが、その一方で知ってしまったことで喪失するものもあります。
ミステリについては単にネタバレと表現すればよいかもしれません。箱を開けてその中身を楽しむ、その行為は箱を閉じたまま想像する行為を永遠に破壊しかねないことに注意を向ける必要があります。とはいいつつ、基本的には箱を閉じたままにしたいことは大体墓場に持っていきたいものと表現されるような知らなくてよい悲しい事実を指す気もするので、やはり何かを生み出すか消費するにあたっては、知ることを恐れず、知らなかった時の気持ちも大切にする、両方やっていくべきなのだと思います。
そういえば、『風の谷のナウシカ』を一度も視聴せずにこの歳まで生きてきましたが、もうそろそろ良いかなと思うので見ようと思います。
終わりに
とりとめもない話になりましたが、キュビスムについてある程度まとまった絵・彫刻等の作品と少しの解説を知ったことで、これを知るべきだったか?と悩みました。一度開けた箱は戻りませんが、人生が終わる頃にはすべての箱を開けている状態になっていたいですし、開けたことを喜べるようになりたいですね。